福田甲子雄―産土と人への相聞俳人

『福田甲子雄全句集』が刊行された。それについては、平成30年9月28日付の小生のブログに掲載させて戴いたが、10年も昔、甲子雄さん亡きあと、ご夫人を訪ねて、表記の小文を書いたことがあった。そのとき、齋藤史子さんや保坂敏子さんが同席して下さったことを感謝している。その小文は、小生の『続俳人探訪』(平成21年2月15日、文學の森刊行)に載せたのであるが、今回の全句集を懐かしく眺めながら、このブログに再掲することで、甲子雄ファンに読んでいただければと思った次第である。
 少し長いが、全文を掲載します。



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 福田甲子雄は日に焼けた顔が眩しい偉丈夫であったが、その眼はいつも微笑を湛え、懐の広いひとだった。昭和二年に山梨県白根町(現、南アルプス市)飯野村の福田家の長男として生れ、平成十七年、四月二十五日に七十七歳で亡くなった。
 俳句結社「白露」の重鎮として活躍し、第六句集『草虱』は蛇笏賞受賞の対象となった。第七句集は遺句集『師の掌』で、「白露」主宰広瀬直人ほか多くのひとびとが高く評価している。
             
  必死なることは雑木の芽吹きにも    
  薫風を胸に飛びたつ蒼鷹★→もろがえり★
  集まりて一筋となる富士の野火    
  夜桜のどよめきこもる谷の底     
  一軒屋目がけ野の枯れ押し寄せる 
                 
 桃の花が山梨盆地を桃色に染めるころ、私は福田邸を訪ねた。夫人の亮子さんから甲子雄のことを伺うのが目的であったが、そこには甲子雄の愛弟子であった斉藤史子さんと保坂敏子さんも待ち受けていてくれた。以下は、その際伺ったことである。
             
 甲子雄の育った飯野村は地下水位の関係で稲作には不向きであった。そのかわり綿や煙草が多かった。それもその後養蚕が盛んになると、蚕に悪いとされた煙草は桑に置き換えられた。肥沃で果樹が栽培された山梨盆地の東部とは様相が違ったようである。八ヶ岳からの北颪も南アルプスからの涅槃西風も激しく、冬は酷寒、夏は旱魃の地であった。
 昭和二十年、十七歳のとき、農業学校を一月に繰り上げ卒業し、学校推薦で満州に渡った。長男だったので両親は猛反対であったが、特攻に取られるよりは少しは安全であろうと思いなおして送り出した。行き先は奉天(今の瀋陽)にあった満州綿花(株)であった。だが、八月九日には撫順の関東軍に召集され、十五日に敗戦。わずか一週間の軍隊であったが引揚げるまでが苦労の連続であった。シベリヤに送られる列車の速度が落ちたとき、そこから飛び降りてひたすら走った。仲間の何人かが機銃掃射で死んだ。奉天へ逃げ帰って職場の課長の家に転がり込み、息を殺して生き延びた。食糧が無く、毎日豆腐でしのいだ。昭和二十一年六月、引揚げ船に乗ったが、故国の港を寸前にコレラ発生のため船ごと留め置かれ、七月にようやく長崎に上陸した。痩せこけた姿で山梨に帰りつき、その姿を見て、祖母は泣いた。おばあちゃん子であった。
飯野村の農業会に務め、昭和二十六年、米山亮子と結婚、男児三子を持つ。

 俳句は、職場の上司で飯田蛇笏に近かった飯野燦雨の奨めで昭和二十一年(二十歳)から始め、「雲母」に投句したが入選せず、翌年ようやく一句欄に載った。爾来、十年間一句欄を続ける。甲子雄は日頃若い人たちにこのことを包み隠さず話していたようだが、事実であったかどうかは精査する必要がある・・・と愛弟子のふたりは言う。俳句初学者への励ましとして「継続は力なり」を力説したかっただけなのかも知れないからだ。とにかく言葉を飾らず失敗談を明るく話す甲子雄であった。
 昭和三十五年、ようやく飯田龍太選作品欄の次巻頭を得た。三十三歳だった。努力の人・辛抱の人である。誰にでも分け隔てなく語りかける甲子雄の周りには、ひとが多く集まった。

 甲子雄の第一句集『藁火』(昭和四十六年)から共鳴句を揚げてみよう。

  牛の眼が人を疑ふ露の中        
  春昼や子が笛鳴らす遺族席        
  枯野ゆく葬りの使者は二人連れ

 村の一戸が牛を飼っていた。甲子雄が近づくと不思議そうに白目で見つめられた。あたりは秋草が露を孕んで垂れ下がっていた。過疎の村のひんやりした空気が感じられる。
 村で不幸があると、皆で葬式を出した。近在のひとびとは、他家の事情について些細なことでも良く知っていて、弁えて助け合う共同体であった。哀しみを知らずに無心に遊ぶ遺族席の子ども・・・。亮子夫人の姉の家の葬儀の場面である。夫は戦死していた。子どもを育て、生きるのに懸命な姉だった。これが初めて龍太から次巻頭を得た句である。
 三句目も葬りの句。喪を村中に報せる役割は必ずふたりで受け持つ。墓穴掘りは四人が当番で決まっている。葬儀の席順も土地の慣わし通りである。季題の枯野が寂しさを深める。甲子雄は世話好きで、とくに葬儀のような悲しいときに、地域のひとびとから大いにあてにされたという。
        
 次は、第二句集『青蝉』(昭和四九年)から選ぶ。

  ふるさとの土に溶けゆく花曇      
  稲刈られにはかに土の色親し
  三日居て三日雪舞ふ刃物の町
  火事の夢さめて越後の雪の中
  斧一丁寒暮のひかりあてて買ふ

 撫順にある関東軍に入隊した経験から、花曇りの季節になると大陸の黄塵を思い出す・・・と甲子雄の自解にある。毎日、手榴弾投げの訓練とソ連軍に備えての対戦車用のタコ壷掘りに明け暮れた。今は、自分の肉体がこの山梨の土に同化して行くようだ・・・とも述べている。
〈稲刈られ〉の句は、田起こしから田植、草取り、刈取りまでの苦労を重ね、稲をだいじに育て、収穫のたのしさまでを熟知している者ならではの句である。一面の黒土にありがたさを感じているに違いない。甲子雄は四六時中農事に携わっていた訳ではない、と思うのだが、そのようなひとたちと苦楽を共にしたひとであったことは間違いない。
〈三日居て〉は刃物の町新潟県三条市を訪ねての一句。豪雪地への挨拶句。深雪が目に見えるようだ。〈火事の夢〉は、へんな夢のせいか夜中に目が覚めたら、新潟特有の寒雷が鳴っていた。カーテンから覗くと、雪が霏々と舞っていた。火事の夢と旅での雪は絶妙な取り合わせである。〈斧一丁〉は、隣村の手作り市へ龍太を案内して行ったときのもの。斧の刃の部分に光をあてて品定めするところが巧く表現されている。日頃斧を使うひとでないと詠めないであろう。甲子雄はよく龍太と旅をしたようだ。

 第三句集『白根山麓』(昭和五十七年)からは、

  稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空    
  樹に岩に礼して行くよ春着の子
  鑑真の眼か堂守の埋火か

を選んだ。私の家の小さな庭にも季節ごとの鳥がやってくる。しかし、そんな小さな規模ではない。甲斐の国の田を刈ったあとに入れ代わり立ち代り訪れる渡り鳥の群れは、山間に暮れ残った空からの光を浴びているこの地を、俺たち小さきものの楽園だと信じているようだ。燕・郭公・葭切などの夏鳥が姿を消すと、鴨・鶺鴒・鶲などの冬鳥が確実にやってくるのである。
 いそいそと正月の晴着を着た子どもたちが何処かへ行くのだろう・・・巨木や巨岩に礼をして通る。今は見かけなくなった。注連縄が張ってあったり、小さな社が乗っているのかも知れない。祖父母や父母から、神格を持ったものとして、教わって来たに違いない。私は、あるラテン系の国で長く仕事をしたことがある。少女たちが街角の小さなマリア像の前を通るとき、胸の前で小さな十字を切り、ちょこんと膝を折り、会釈をして通り過ぎるのに何度も出会った。政情不安定なその国でも、そういう風景が見られた。「礼」の対象は違うが、こころ和む風景である。作者のやさしい目を想う。
〈鑑真の眼か〉の句は吟行句。龍太の「雲母」終刊後、甲子雄と一緒に「白露」を立ち上げた広瀬直人主宰が、「福田さんと一緒に飛鳥・橿原神宮・唐招提寺を歩いたとき、鑑真像の前でじっと動かなかったのを思いだした。今思うと福田さんの眼と鑑真の眼が同じようだった。私のこころに生きている句だ」と、後述の追悼句会で述べている。

 第四句集『山の風』(昭和六十二年)と、第五『盆地の灯』(平成四年)からは、

  まづ風は河原野菊の中を過ぐ      
  母郷とは枯野にうるむ星のいろ
  一山の新樹のうねる目覚めかな     
  白杖の倒れしひびき冴え返る
  仏桑華遺影三つ編みばかりなり     
  磯海女のひとりがピアスしてゐたり

が目に付いた。彼の家の側を流れる御勅使★→みだい★川を吹く風は強い。そこに咲いている河原野菊は、見かけは弱々しいのだが、風にも旱にも靱い。甲子雄はそんな河原の野菊が好きだった。二句目〈母郷とは〉は・・・枯野が夕暮れるころ、山の端は未だ明るい。一番星が潤んで見え始める。また一日平穏に過ぎて行く。生まれ故郷はそういうところなのだ・・・という風土賛歌の句。三句目も生まれ在所の新緑に目覚める幸せを謳歌する。
〈白杖の倒れしひびき〉は、眼の不自由なひとに音を配している。風土俳句とは趣が少し違う。立てかけてあった杖が、硬い床に倒れた。その一瞬の音を切り取って詠っている。静かさの中に季語がよく効いている。
 あとの二句は吟行旅行の句であろう。彼は各地の「白露」の会によく出かけている。沖縄の女子学生の遺影かも知れない。海女とピアスの句は、取り合わせが面白い。伊豆での一句で、このとき同行同宿のひとが、甲子雄の鼾の凄さに辟易し、押入れに避難したそうだ。

 第六句集は、蛇笏賞の『草虱』(平成十五年)である。次を選んだ。

  秋嶺や行く方しれぬ鈴の音       
  鐘かすみては遠ざかる母郷かな
  骨壷に五体収まる枯野かな

 七十五歳となっていた。誰の鈴の音だろうか。少女のだろうか。巡礼のだろうか。秋の遠嶺が明るく見えているが、あの山のどのあたりを指して行くのだろうか。二句目も三句目も、なんとなく侘び寂びを感ずる。

 そして冒頭に述べた遺句集『師の掌』である。掲げたい句が多すぎて困る。
  
  枯露柿に粉★→こ★のふきだせり山の風
  挿木終へ疲れ眼いやす駒ヶ岳     
  春の雨野に生きものの臭ひたつ    

 一句一句の下手な解説は止めよう。山梨の、いや飯野村の自然に身を任せて生きるひとの息吹が聞えるようだ。前に掲げた〈稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空〉を、私は彼の風土詠の最高傑作句だと思っているが、それに劣らぬ作品がこの句集には沢山あるのだ。
 自然環境の厳しい風土であった。だから彼の風土句は賛歌ばかりではない。厳しい気候風土に対する愛憎の句もある。その様な環境にあって、ひとびとは近隣同士援けあって生きてきた。人懐こい性格は、甲子雄にはっきりと顕れている。俳句の仲間に、「オーイ、いたけ」と、甲州弁丸出しで気安く声をかけながら訪問し、「ほうけ、ほうけ」が相槌だった。斉藤史子と「雲母」終刊の雑事で晩くなったとき、書類を焼く火を見ながら、深刻な気分になってか、史子に「俳句に命かけるつもりあるけ?」と訊いた。史子が「まだ分らない」と応えると、甲子雄は「ほうけ?」と言って、そのまま二人は黙った。

  部屋ごとに色かへて挿す冬の薔薇   
  落鮎のたどり着きたる月の海
  雉子の鳴く山また山の奥に墓     

 この三句は、甲子雄のいつもの句と微妙に異なっている。繊細な情緒がより色濃く出ている。とくに〈落鮎の〉の句は、形而上の月の海を言っているのではないのか。「白露」平成十七年十一月号に、高野ムツオは、「月の海」の静けさはどうであろう。落鮎には落鮎の生と死があり苦悶と安寧がある。その世界を月明の海に思い描いているのであろう……と鑑賞している。福田邸の床の間に飾られていた絵皿には、甲子雄の筆跡でこの句が書かれていた。

  残雪を踏み固めては斧を打つ     
  明星の映るまで畦塗り叩く

 この二句は、机上や吟行では詠めない。足を地につけて働いた者の、いや、雪上に汗を流したことのある男の大地へのうたである。
 甲子雄の句は、多くは山梨の風土をテーマにしているが、そこで寄り添って暮すひとびとや彼自身の家族を取り上げた句も多い。

  生誕も死も花冷えの寝間ひとつ    『藁火』
  蜂飼★→はちかい★の家族をいだく花粉の陽    
  子の学資わたす雪嶺の見える駅    『青蝉』 
  つぎつぎに子が着き除夜の家となる  『白根山麓』
  残る歳過ぎたる歳も霜のなか
  ちりぢりに子が去り雪となる三日   『山の風』
  父は子の名前忘るる花の闇

 今と違って、お産も葬式も自分たちの家で行われた。〈生誕も死も〉は、甲子雄の友人が急逝したときの句である。このときの葬式は花冷えのころだった。家へ帰ってきて、やるせない気持で詠んだ。甲子雄の家には三代の家族が棲み、三子は家で生まれ、母も父も同じ家の同じ部屋で、亮子夫人に手を握られて亡くなった。どこの家にも家族制の名残があった。この句を中岡毅雄が「俳句研究」(平成七年二月号)で、観念的抽象的である、と評しているが、私はそうは思わない。この句の背景を知ってしまったからなのかも知れないが・・・。
 甲府盆地は果樹園が盛んな土地である。近所に養蜂家がいた。〈蜂飼の家族〉の句は、そんな土地柄だから詠まれる。四月中ごろ花に埋まる。花粉が舞い、ミツバチの羽音が心地よい。自然と一体となり、一家総出で蜂の世話をする。「雲母」初巻頭の作。
 息子は地方の大学に行っている。〈子の学資〉の句は、何かのついでに息子を訪ね、駅で一万円かの学資一ヶ月分を渡す風景。時間がなくてゆっくり話せない。甲子雄は自解に、「小遣いを余分に渡すべきだった」と書く。暮から正月にかけて三人の子どもが家族連れで山梨までやって来る。〈つぎつぎに〉全員が揃ってから除夜の鐘が鳴る。
〈残る歳〉は、この句だけでは深い意味は分らない。昭和五十一年(五十歳)の作で、自解がある。「これからせいぜい二、三十年の人生。この家で三人が生まれ、母が死んだ(このとき永年病床にあった父も、このあとこの家で亡くなる)。長男が生れたときは、陣痛が来てからなかなか生れなかった。私は炬燵で寝入ってしまっていた。起こされてはじめて、元気な泣き声が部屋中に響いているのを聞いた。母の死のときは、何日も危篤がつづき、疲れきってやはり眠ってしまった。そうしたことを思うと、時の流れの速さをしみじみ思うのだ。外の霜の白さが目にしみる」
〈ちりぢりに〉の句は、正月帰省の息子家族がそれぞれの生活の場へ帰って行ってしまった後の情景を詠んだもの。ただ雪だけが降っている寂寥感。
〈父は子の〉の句の「父」は、甲子雄の父であろう。最晩年は今でいう認知症となって、甲子雄の名前を忘れたようだ。しかし、亮子夫人の名前はいつも正しく呼ばれていた。永年ひとつ屋根に棲んで、寝食一切を亮子夫人がお世話をした。葬式で泪を流していたのは彼女だけだった。
 このように、甲子雄の俳句は、「風土」以外に、「家族」というモチーフでも支えられている。むしろ、風土以上に家族を含む「土地のひとびと」が彼の句の揺るぎない土台となっている、と言っても良いであろう。「ひとびと」の中には、当然「師」が含まれるのだ。
 遺句集『師の掌』の次の二句は感動的である。

  病窓の半里向ふに在所の柿     
  わが額に師の掌おかるる小春かな

 胃と胆嚢を全摘出した。病院の窓から、明るく実っている在所の柿をどんな想いで眺めていたのであろうか。師の龍太が、術後小康を保って退院した彼を見舞ってくれた。甲子雄の額にそっと触れ、快癒を願ってくれたのである。敬愛する師の所作が嬉しく、かつ畏れ多かったことであろう。甲子雄の手帳には「師の掌おかるる」とあったようだが、発表は何故か「師の掌のふるる」とされた。後日、関係者がいろいろ調べて、結局掲句に落ち着いたようだ。わずか十七音に、師への気持をこれほどに凝縮させて詠んだ句を、私は知らない。

 左の句は、亡くなる平成十七年に詠まれた句である。

  春の空わからなくなる妻の声    

「わからなくなる」は初案では「わからんじんの」という方言であったようだが、より平明で哀しみを籠めた掲句のように改め発表された。
 甲子雄について、私は表向きのことばかりを書いたようだ。だが、この「わからんじん」の初案を知ったとき、甲子雄の生身に触れたような気がした。見える部分だけでなく、奥の心理に触れたような気がした。終の床にあって、意のままにならないことが多かったであろう。考えてみると、家の切り盛りはほとんど亮子夫人にまかせっきりだった。ふた親の看取りも、子どもたちのことも、そうだった。町内会の雑事も「女組長がいるから大丈夫」と言って、自分は地方の大会に出かけていった。観光地が多いのに、まったく妻を連れて行ってない。そして、この期に及んで、妻にさらに多くのことを頼りにしている。ああもしたい、こうもしたい・・・だけでなく、見舞いにきてくれた人たちに、ああもしてあげたい、こうもして差し上げたい・・・多くは、ひとへの心配りであった。もちろん「白露」のことも気がかりだったろうし、投句も頼まねばならない。混濁する意識の中で、色々な想いが渦をまく・・・その渦の中に来し方の折々の場面が走馬灯のように組みこまれる。
 死の病の床にあるものの心理的欲求を満たすことは容易ではない。病人はときとして不満を覚えたであろう。「わからんじん」の措辞は、それを顕している。だが、それは全幅の信頼を置いている妻への甘えであって、批難では決してない。上五の「春の空」がそれを保証している。期せずして、〈春の空わからんじんの妻の声〉は、死を迎えつつある甲子雄の心理状態を見事に表現しているではないか。
 発表句は「わからなくなる」に納まったが、俳句が作者から離れて一人歩きするとき、「わからんじん」よりは一段と完成度が高く、重々しくひとの心を打つ。

 平成十七年八月二十日、南アルプス市飯野の桃源文化会館に、北海道から九州までの各地から四百人が集まった。福田甲子雄の追悼俳句会が催されたのである。会場の壁面には折節の甲子雄の写真が掛けられ、その前の卓とグループごとのテーブルには、彼がこよなく愛した巨摩郡の野の花が飾られていた。彼を敬愛する後輩たちが、「買ったものでなく、甲子雄の風土で育った花を」という気持で集めたものであった。教えを受けた斉藤史子の泪ながらの開会挨拶、『無念の一語につきます。永遠の心の友、龍太』のメッセージ紹介、最愛最枢要の同志を失った主宰広瀬直人の回顧談などがあり、そして句会。同じく教え子の保坂敏子の閉会の辞は、「生きて生きていい句を作って行きましょう」だった。この言葉は、甲子雄がまわりの同人たちに口癖のように言っていた言葉らしい。思い当たる人たちの目は潤んでいた。会場の空気は、彼が、俳人である以前にひとりの人間としてみなからこよなく敬愛された先達であったことを示していた。そして敏子は「こんなに悲しいのにおなかが空く自分が憎らしい」と言う意味の感想を述べた。甲子雄の俳句以上にその人柄に傾倒していた弟子の偽りのない言葉に、みなが胸を詰まらせた。
 会場の壇上には、ふた抱えもあろうかと思われる大きな壷一杯に花が容れられていた。花は溢れんばかりの濃紺・・・竜胆・・・一種であった。
 永遠の心の友=龍太が贈ったものだった。
                                    (完)

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