俳誌「今」への寄稿ー勝又星津女のこと

 俳句結社「今」は、「白露」の広瀬直人さんが倒れられてから、井上康明さんの「郭公」が後継誌として創刊されたが、期を同じくして飯田龍太・福田甲子雄の流れを慕う瀧澤和治氏らが「今」を立ち上げた。その「今」に筆者は何度か寄稿させて戴いているが、今回は、昨年亡くなった札幌の勝又星津女さんのことを載せて戴いた。樺太に生まれた彼女は「北の雲」という結社を引き継ぎ、北海道の俳人たちの良き発表の場を提供してきた。ご主人とともに大の龍太ファンであった。以下に掲載する小文は「今」に寄稿したものの原文である。ご参考までに。


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寄稿 特別取材
誠実な北の俳人=勝又星津女     聞き手 栗林 浩

 安保法制が成立した今、多くの市民が心配していた「戦争法案」が、そうならないように、非力な俳人でも何かをせねばならないと思っている。イデオロギー論争は嫌いだが、戦争の悲劇を、愚を、月並な言い方だが、語り続けるべきであろう。そう思ってこのシリーズを書いてきたが、その女流の初めのお客様に勝又星津女「北の雲」主宰を予定していた。だが、体調不良のため、ならなかった。それどころか、平成二十七年十月十四日逝去されたとの報せを受けた。九十二歳であった。

樺太生まれ
 勝又星津女を取材したかった第一の理由は、彼女が樺太生れで、戦災の苦難と哀しみを背負っているに違いない、と感じたからである。幸い一人娘の津田眞智子さんと「北の雲」編集長の滝谷泰星氏を札幌に訪ねることができた。お二人に伺った星津女の略歴は、
  大正十二年  樺太の真岡(現ホルムスク)生まれ。
  昭和十四年  真岡高女卒業
  昭和二十二年 終戦後収容所で二年ほど生活。母の生家のある道東の厚岸町に引揚げる。
  昭和二十五年 勝又木風雨(「氷下魚」「雲母」の同人、札幌で京呉服商を経営)と結婚。これが俳句の機縁と            なる。
  昭和三十年  「氷下魚」の伊藤凍魚(「雲母」同人)に師事。
  昭和三十四年 「雲母」入会。晩年の飯田蛇笏に師事。以降、龍太を絶対の師と仰いだ。さらに後継誌の「白            露」(廣瀬直人)、「郭公」(井上康明)の創刊同人となる。
  昭和四十五年 勝又木風雨の「北の雲」創刊同人。
  平成九年   木風雨逝去。主宰を継ぐ。
  平成二十七年 十月十四日逝去。「北の雲」四百九十号をもって終刊。

 星津女の最後の句集『北の山河』の跋文(滝谷泰星氏による)には、次の文がある。

  昭和二十年、ソ連軍が一方的に侵攻してきて、真岡は艦砲と空爆を浴び、町民は悉く山に避難した。隊長格の元下士官中川喜八は、自ら白旗をかざしソ連軍と交渉し、二千人余りの町民全員を町へ帰還させた。この人こそ星津女の父であり、その後、家族揃って道東の厚岸町に引揚げてきた。

 また、星津女の第一句集『絹の川』の序文には、同じ樺太出身の「雲母」同人菊地滴翠がこう書いている。昭和四十七年時点での回顧である。

 星津女さんの生まれ育った町は、いまはソ領となり「ホルムスク」という。戦前は真岡と呼ばれ、日本海に面した海岸段丘に沿った町並が拓け、商港と、漁港が整備されていて、星津女さんの育った家は、この漁港を背にした町の表通りにあり、冬になると近所のタラバ蟹の工場から蟹をうでる匂いが溢れるところにあった。太平洋戦争のみじめな敗退により、生活の全ての基盤を奪われた邦人はやがて祖国への引揚げを認められ、このホルムスクから引揚船に乗ったのであるが、ソ領施政下の引揚者収容所は星津女さんの玄関先から真上に望まれる海岸段丘にあった。この建物は星津女さんが学んだ小学校のなれの果である。もう二十幾年むかしのことである。くり言といえばそれまでであるが、身一つで帰国した星津女さんが「衣匠かつ又」の内儀として今日を築くまでの日日が、どんなにか苦渋に満ちたものであったか………。

―――樺太での終戦時の状況はどうだったのでしょう?
眞智子 幼少時代は何ひとつ不自由のない家庭だったようです。父喜八の長女でした。ときどき連れられて、真岡から小樽まで遊びに来たりしていました。そのころ札幌は小樽より小さかったようです。
終戦直後は町の人と一緒に捕虜収容所に入れられたと聞いています。母はあまりその頃のことを話しませんでしたが、厳しい尋問などがあり、惨めであったと思われます。父………私にとっては祖父ですが………は騎馬隊出身で中々のハンサムでした。仲間のまとめ役でもあったようです。引き揚げに際しては、ソ連軍から注射を義務付けられていたのですが、発熱や副作用が酷かったようで、喜八は時計や貴金属を係官に渡して免除してもらった、と言っていました。衛生状態の悪さも想像が付きますね。
 喜八は交渉力・企画力のある人だったようで、厚岸に引揚げてきてから、昆布を厚岸の名産にしようと努力しました。実は海胆は昆布の敵なんですね。食い荒らすんです。それで海胆を獲っても良いという許可を役所から取り付けて、権利をみなに利用してもらえるようにして、喜ばれました。海胆の柵というのでしょうか、底の浅い木の箱がありますが、あれは喜八が創作したのだそうです。母は慣れないことですが、昆布を町民に売ったりしたそうです。箱入り娘だったですからね。晩年まで童女のような人でした。昆布干しだって、あれは裏表があるんですよ。そんなことも出来なくてね。喜八は、厚岸に橋を架ける計画があり、道庁に交渉に来ていて、勝又の家で急逝しました。

俳句との機縁
 眞智子 母は若いときは文学少女でした。短歌を詠んでいましたが、夫となる勝又木風雨に俳句の機縁を得、昭和三十年、「氷下魚」を経て、昭和三十四年には蛇笏の「雲母」に依りました。その後、龍太先生に可愛がられ、昭和六十三年には雲母同人となりました(六十五歳)。
―――ずっと地方に住んでいたためか正直言って遅咲きの俳人のように見えますが………。
滝谷 その後、昭和四十五年に夫木風雨とともに「北の雲」を創刊し、北海道の有力俳句結社にまで育て上げました。平成九年には夫木風雨を急に失い、爾来、二八七号から彼女が主宰として発刊を続けましたが、その「北の雲」もこの十月に四十五年の歴史を閉じました。星津女に特徴的なのは、「北の雲」を大事にしながら、蛇笏・龍太に深く傾倒し、「雲母」終刊後もその後継誌たる廣瀬直人の「白露」、さらにその後継誌である井上康明の「郭公」という蛇笏・龍太一門から出ようとせず、気持ちを籠めた作品を送り続けたことですね。律儀さだけでなく、この師系に動かし難い魅力と師恩があったからに違いありません。それにしても、最近はこのような一途な門弟は少なくなりました。龍太さんからは随分と可愛がられました。龍太、直人、康明の三師が選んだ星津女句一つずつを上げて見ましょう。
 龍太の選  深雪後のしづけさはみな嶺にあり
 直人の選  桐咲いて五百羅漢の眉目かたち
 康明の選  野菊一輪遠方の友の文
眞智子 山廬へお邪魔したときは、憧れの龍太先生から離れて畏まっていたそうですが、先生が「俳句の下手な人は前へ出て坐って下さい」って言われて座を進めました。でも、緊張で口もきけず、先生が「木風雨さんはお酒はいける方ですか?」ってお訊きになられたときも、ただ指を二本出すのがやっとのことだったようです(笑い)。
滝谷 「北の雲」が三百号を迎えたとき、既に俳句界から隠棲されておられた龍太先生からお祝いの言葉を戴きました。そこには、次のように書かれています。
  俳句・俳句界の頽廃は、俳人がいつとはなく自然から目をそむけ、大地から遊離したとき………日頃から私は、そう考えます。自然は、いわば源流のようなもの。源流を豊かに保ちつつ、河口まで澄みを失わない努力が俳人にとっては何よりも大事ではないでしょうか。
この文章は木風雨から星津女が主宰を受け継いだときに、龍太先生が贈った次の祝句に通じているのです。
  源流の澄みそのままに下流まで   龍太

星津女の作品
 星津女には佳句が沢山ある。筆者の一存で選んでみる。ただし、彼女の句集の数は少ない。第一句集が『絹の川』(昭和四十七年)、第二句集が没年の『北の山河』(平成二十七年)である。第二句集は滝谷氏の強い慫慂と協力があって、ようやく刊行を見たものである。
滝谷 「北の雲」はモットーとして、日頃「俳句は俳句もて習う」と標榜していましたので、「先生の俳句が手元にないと何に習うんですか? 一生のものをちゃんと纏めておかないと駄目じゃないですか」って強くお勧めしました。そうしたら「そうね」って言って下さいました。
眞智子 八十の時も、九十の時も出せって言ったのに、出さなかったんです。句集を出すのには積極的でなかった。というより「北の雲」の刊行で暇がなかったんですね。滝谷さんに勧めてもらって良かったです。

自然詠から
  水芭蕉山河かがやきはじめけり
  風はみなさざなみとなる九月かな
  夏至の日の洗ひ上げたる北の空
特に風土を大切にした句
  過去見ゆるほど水澄みて樺戸郡
  深山あぢさゐ火の山を真向に
  湖二つ見てゆく秋の形見とす
身辺詠
  裁つ絹の塵身にまとひ十二月
  夜の秋白絹の冷え手に残り
  さきがけて刃物光りの北辛夷
  虫のこゑ夜咲く花のうしろより
家族詠
  枯菊を焚きて父の忌重ねけり
  母の忌にひらきて北のさくらかな
  流氷接岸木風雨忌を明日に
近詠から
  ひな祭卒寿の指の紅珊瑚
  贋の髪かむりて初夏の街に出づ
  一病息災七草粥に梅ひとつ

筆者が推す代表句鑑賞
 菜の花に旅の終りの眼を洗ふ
 夜の秋白絹の冷え手に残り
 遠き生国手のなかのさくら貝
 裁つ前の友禅紅葉あかりかな
 嫁がせて日にいくたびも掃く落葉
 薬売り来てふるさとの雪降らす
 約束のごとく美濃より富有柿
 虫のこゑ夜咲く花のうしろより
 字小黒坂十月の川の音
 ばうばうと生誕も死も雪の中
 花アカシヤ甲子雄師偲ぶよすがとす
 ひな祭卒寿の指の紅珊瑚

 一句目。大景を想像した。旅の終り、眼前に広大な菜の花畑があったのだろう。朝日の中に輝く菜の花に眼を洗われるような心持がした。目を洗うとは心が澄んでゆくことである。良い旅であったに違いない。三月の伊豆の景で、龍太の特選であったことを後で知った。花の歳時記の菜の花の項にはきまってこの句が例示されている。
 二句目四句目。星津女さんの家業は呉服屋「京の衣匠・かつ又」。絹に関する句が多い。中からこの二句を選んだ。艶やかな絹の手触りは、晩秋ならばなおのこと、手に清涼感を感じる。その身体感覚を詠んだ。四句目の「友禅」の深紅の「紅葉あかり」が豪華絢爛。しかも、鋏を入れる前だから、緊張と共に絹地への深い思いが籠っている。
 三句目。星津女さんの生まれは樺太。今年九十二歳になられた。手軽には行けない故郷である。可憐な桜貝を掌にしながら、ただただ故郷を偲ぶ。筆者(=栗林)は、星津女さんにお目にかかって、樺太での思い出を伺いたいと思っていた。それは成らなかったが、彼女にとって、戦時下の艱難辛苦は思い出したくもないことだったかも知れない。
 五句目。星津女さんがお嬢さんを嫁がせたときの句であろうか。何か大切なものを失ったように、物思いに耽りながら、何度も何度も、虚ろに、落ち葉を掃いている。掃かねばならないほどの量ではないのに………。
 六句目。子どものころ、富山の薬売りが、年に一度はやって来たものだ。薬売りが私たち家族に話してくれる各地の風土記のような語りが楽しかったものだ。雪深い所から来た人だから、話題は雪のことになったのかも………。ここ札幌に降る雪も、富山や樺太の雪であるかのような移調感覚となっている。抒情性豊かな句である。
七句目。〈約束のごとく美濃より富有柿〉。親しい友が美濃におられるのだろう。実のしっかりした富有柿がいつも送られてくる。北海道に柿の木はない。終戦直後は「樽柿」と呼んでいた大ぶりの、渋を抜いたのを食べた記憶が筆者にはある。勿論、内地から送られてくるのである。良い友人を持っておられる。
八句目。〈虫のこゑ夜咲く花のうしろより〉。「夜咲く花」は何だろう。筆者は「烏瓜の花」を思ったが、滝谷氏の跋文では、「おしろい花」であるとのこと。はっきり言わなかったことが良かったのかも。いずれにしても、「花のうしろから」がいい。句に厚み・深みが出ている。
九句目。〈字小黒坂十月の川の音〉。飯田蛇笏・龍太の山蘆を詠んだもの。とすれば「川の音」は狐川であろう。龍太さんを、一筋に師と仰いだ星津女さんの思い入れが感じ取れる。
十句目。〈ばうばうと生誕も死も雪の中〉。筆者はこの句を読んで、福田甲子雄さんの〈生誕も死も花冷えの寝間ひとつ〉を思い出した。北海道は、年のうち三、四ケ月が雪の中での忍従の暮らしである。勿論、春が来る楽しさは大きいが、一般には、雪が重くのしかかる地の風土詠のように思う。
十一句目。〈花アカシヤ甲子雄師偲ぶよすがとす〉。この句の存在が、前句の解釈に影響を与えたかも知れない。甲子雄さんが「白露」の地方大会の際、札幌へこられ講演をされた。アカシヤが咲いていたころかと思う。筆者も縁があって札幌まで駆けつけたことがある。だから筆者にとっても懐かしい句である。この句のお蔭で、アカシヤの花が甲子雄さんのあの爽やかなお人柄に合っている、と思えるから不思議である。
十二句目。〈ひな祭卒寿の指の紅珊瑚〉。星津女さん九十歳の句。「紅珊瑚」が若々しくてきれい。この句の近くに〈168 贋の髪かむりて初夏の街に出づ〉がある。どうぞご健勝にて外出などして頂きたいと願っていたのであるが………。また〈一病息災七草粥に梅ひとつ〉が、この句集の掉尾にある。
 
辞世の句
 星津女作品に戦災の悲惨さを詠った句はないに等しかった。記憶に蓋をしたかったのであろう。多感な少女時代を過した彼女にとって、その地は、今は、足を踏み入れることが拒否されている異国の領土である。考えて見れば、こんな悲しいことはない。戦争が庶民の心に刻んだ傷である。その傷を振り返りたくない、いや、振り返ってもどうにもならない悲しみが湧くだけなのであろう。眞智子氏は「母は思い出すこと拒否しているようだった」と言う。
 筆者は眞智子氏と滝谷氏に星津女の辞世の句を訊いた。命終の四日前の口述句である。まだ十月なのに、生きてあれば年賀状に遣うように眞智子氏に伝えたという。何ごとも充分事前に事を運ぶという星津女さんの性格が想われる。
初あかね九十媼の命の灯   星津女
混濁した意識の中からの最期の一句と思えば重く響く。                              (合掌)

 平成27年10月29日、札幌パークホテルにて。




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この記事へのコメント

匿名希望
2018年10月12日 11:29
勝又星津女には二人の娘がいます。津田眞智子話もでたらめです。読んでいてあきれました。
匿名希望
2018年10月23日 17:52
上記削除希望します。

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