伊藤眠句集『水の音楽』

 伊藤眠さんが第三句集『水の音楽』を上梓された(文學の森、平成30年1月22日)。眠さんは飯田龍太の「雲母」に昭和62年に入会し、終刊後しばらくして個人誌「雲」を創刊された。現在は大木あまりさんに師事し、現俳協や横浜俳話会の役員として活躍されている。


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 自選句は次の10句。

  魞挿すや湖に明るき陽の戻り
  川に沿ひ人に添ひたる桜かな
  小流れに楽土ありしか飛ぶ螢
  子河童のいづこより湧く川開き
  七夕や文字書けぬ児は夢描き
  大潮の月白々と獺祭忌
  木の実降る歴史は今日も作られて
  鬼貫の墓をさがせば時雨けり
  まつすぐに喉とほる水白鳥来
  みな還る海へ若水奉げたり

 一句目は端正な自然詠であるが、陽が戻った明るい琵琶湖の湖面に、魞漁の小舟と、それに立ったままで漁る漁師の姿が見えて来る。すべてが有季定型で、叙景句の中にさえ人間が、直接あるいはほんのりと、現れている。

 筆者が感銘を受けた句は次の通りである。

007 魞挿すや湖に明るき陽の戻り
008 白梅のぽつりぽとりと真夜の嘘
010 着ぐるみで語る恋なりカーニバル
016 祖母の手のにはかに若し雛飾る
030 初めての本の重さや新入生
031 散るさくら無声映画を見るやうに
053 居候体質ですとさくらんぼ
061 鯵干して縁者少なになりにけり
064 黒鯛を釣つて男を黙らしむ
064 さみだれや横浜(ハマ)のメリーの立ち処
066 真つ当に生きて虎魚の薄造り
071 大山の水育ちなり冷奴
075 海の日や走り出したき「赤い靴」
077 姿より先に声あり帰省の子
078 幕間のやうな一日や水中花
086 心太突けば青める笹の風
092 秋近し埠頭のキリン沖へ向き
098 送りまぜ微睡むはペン持ちしまま
100 新盆や飯粒乾く犬の皿
107 五山秋石の下にも水の音
108 ふと口に燕去月てふ言葉
108 鯖雲の空ほどけゆく木魚かな
109 逆縁もあるらし鷹の山別
113 秋蝶の受胎告知をするやうに
114 持て余す可杯(べくさかづき)や月の客
120 子は泣くを忘れてゐたり秋螢
123 退職の脚によく付き草虱
143 こがらしや困つた貌の犬連れて
157 焼芋のほこりと胸に灯りたり
163 寒鴉祖母は白黒つけたがり
182 年の夜や星に寿命のある不思議

 筆者の共鳴句から幾つかを鑑賞しよう。

008 白梅のぽつりぽとりと真夜の嘘
 上五中七までは何ということのない叙物句。だが下五の「嘘」で現代俳句となったように思う。夜の白梅の一輪一輪が、虚言を呟いているようだ、というのだ。

010 着ぐるみで語る恋なりカーニバル
 カーニバルだから、みな何かに変装している。可愛い動物の着ぐるみを着た二人なのだろう。多分着膨れているであろうから、ふたりの愛の言葉もゆっくり目なのに違いない。メルヘンのよう。

031 散るさくら無声映画を見るやうに
「散るさくら」の直喩に「無声映画」を持って来たのは見事。夜桜で、モノクロームである。勿論、音もない。伊藤さんの「技」を感じさせる句。

053 居候体質ですとさくらんぼ
 この一句を読んで、筆者は京極杞陽の〈性格が八百屋お七でシクラメン〉を思い出した。「さくらんぼ」の体質が「居候体質」だとは、思いもしなかったが、納得できる。楽しい句。

064 さみだれや横浜(ハマ)のメリーの立ち処
 黄金町辺りだったか、白づくめのメリーさんを見たことがあり、話にも聞いていたので、昔を思い出した。もうとうに亡くなったに違いない。

075 海の日や走り出したき「赤い靴」
 山下公園の「赤い靴」の少女像を思わせる。人が触るので「赤い靴」の部位は地金の銅の色が光っている。異人さんに連れて行かれたことになっているが、病を得て、そうでなかったとも聞いている。だから、「走り出したき」には全く同感。

077 姿より先に声あり帰省の子
 帰省先の家は、多分、開け放たれた農家のような造りなのであろう。少なくても団地作りではない。だから、姿より声が先に聞こえて、嬉しさが転がって来るようだ。今となってはノスタルジーの句。

100 新盆や飯粒乾く犬の皿
 見事な写生句。亡くなった人と飼い犬との関係に想いを馳せても良いのだが、「飯粒が乾いている皿」ただそれだけの非情な写生句として読んでも良い。その方が佳句のように思える。まさか、愛犬が死んでの新盆ではあるまい。

109 逆縁もあるらし鷹の山別
「山別」が上手かった。これも伊藤さんの「技」。白状するが、知らなかったので調べたら、菅原道真の和歌にたどり着いた。それが正しいかどうかは自信がないが、読者の読みは自由であっても許るされるに違いない。

113 秋蝶の受胎告知をするやうに
 筆者が推すなら、この句か031がイチオシである。受胎告知の名画はいろいろあるのだろうが、筆者にとっては、ウフィツィ美術館のが思い出される。受胎を告げる天使の指先がマリアの目にむけられている。マリアの視線も天使の指に向けられている。そこには蝶は出て来ないが、天使の指先とマリアの目の間の直線上に、秋の蝶がふらふらと飛んでいるのかも。繰り返すが、とんでもない誤読であっても、読者の思い込みは、簡単には変えられない。

114 持て余す可杯(べくさかづき)や月の客
 高知を旅し、酒席となると、ベクハイに出会う。飲み干さないと、テーブルに置けない形になっている。作者と読者の共通経験が、この句の価値を、共同で育てたともいえる。俳句とはそういうものであろう。

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