山廬の彼方へ―「一月の川」論(前編)

 先に俳誌「今」のことをご紹介したが、ここに以前載せて戴いた小論がある。飯田龍太の「一月の川」の句を論じたものである。その前編のみを以下に掲げる。後編は、筑紫磐井さんの著名な論を引きながら論じてみたが、冗長になるので、ご興味のある方は「今」編集部なり小生にお問い合わせください。


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山廬の彼方へ―「一月の川」論(前編)      栗林 浩

一、移調ということ
 山本健吉は高野素十の次の句について、こういう意味のことを書いている。
  づかづかと来て踊子にささやける     高野素十
この句は作者(=素十)がドイツ留学中の作だという。私(=健吉)はこの句から日本のある盆踊風景を脳裏に描き出す。そしてそれは、作者がこの句の感動を引出したある現実の風景とまるで違っていることも明らかである。作者自身が外国の踊場の一風景から、日本の盆踊風景の一齣を導き出している。これが俳句における移調(トランスポジション)である(傍線は筆者、『山本健吉 俳句読本』第一巻)。
 だから、逆に日本の川や谷の句から外国のそれを想像することも許されるのである。

二、始まりは前衛俳人からの賞賛
  一月の川一月の谷の中    飯田龍太    一九六九年二月
「俳句」の一九六九年二月号にこの句を冒頭に置いた龍太の三十句「明るい谷」が載ったのだが、中村苑子は「俳句研究」の同月号に次のように絶賛の句評を書いた。

 この句を読んだとき、わたし(=中村苑子)は、俳句の神髄をみる思いがしたのだが、神髄とか、極致とかいう精神のいやはての世界は、なにか虚空的な無限感のただよいなのであろうか。一月と、川と、谷と………。置かれたことばは、ただそれだけである。句意も、そこに現出する実景も、口を噤んでなにも語らず、表現以外の連想をきびしく拒んでいる句である。
 この句のすがたに胸をうたれて、かたわらにいた高柳重信に示したら、「うまい、まさにうまいとより言いようのない句だ」と評した(後略)。

 苑子のこの文は「一月の川」の句の賞賛の嚆矢であり、しかもこの句と飯田龍太という名を不即不離の関係にする役割を果たした。それを諾いながら、筆者は第一の傍線の部分に違和感を覚えている。苑子は、龍太のこの句の屹立した言葉遣いに感動のあまり一切の想像を禁じられたように感じたのであろう。だが、この句はむしろ読者に向かって「どうぞいろいろ想像して下さい」と言っているのではなかろうか。想像の余地が充分に広くて、かつ、読者が読者なりにこの句から読者自身の景を想起できるところに、この句が愛される理由があるのではないか。つまり、健吉の言う「移調」である。少し飛躍するが、筆者にとって、この句は山廬の裏手の狐川よりも、リオ・デ・ジャネイロ(ポルトガル語で「一月の川」の意)の巨岩の高みからの景を思い起こさせてくれる。
 第二の傍線部分は、この句の運命に大きな影響を齎した。苑子のこの句評の後、夫の高柳重信が新聞の俳句時評欄に次のような記事を書いた。龍太が読売文学賞を受けたお祝いの記事でもある(讀賣新聞、一九六九年二月二十七日夕刊)。

  まず、飯田龍太句集『忘音』の読売文学賞受賞に、心から祝意を表したい。屈指の同世代作家である金子兜太の『蜿蜿』も同年の発行だが、これは候補にのぼらなかったらしい。従来、読売文学賞を受賞した句集に比べると、まだ十分なまぐささが横溢していて、なんとなく旧例にそぐわない感じがする。そこへいくと飯田の作品は、こんど候補にのぼった『石鼎句集』や富安風生の『傘寿以後』とくらべても、あまりちぐはぐな感じはない。そのうえ年齢的な若さが加わるから、いっそうめだってくる。「俳句」二月号に発表された「明るい谷」(三十句)の第一句「一月の川一月の谷の中」は、目下の境地を的確に現しているといえよう。

 この記事は「俳句」発売後約三週間ほどのことである。高柳のような前衛派が伝統派の龍太の作品を賞賛することの影響は極めて大きい。しかも彼は前年から「俳句研究」の編集長であったから、余計に効果があった………とは思うのだが、実際は、その効果はもっと後になってからはっきりする。特に、大岡信、山本健吉らが前向きの発言を重ね、その後も、高柳が龍太の卓越した資質と言葉遣いの巧みさを高く評価し続けたからである。それまでに約十年という年月を必要としたのであった。その理由は、この句が反論を受ける要素があったからでもあった。
 余談だが、高柳重信が前衛派のもうひとつの流れにある金子兜太に対し批判的であった様子がこの一文からも伺われる。因みに、兜太は「一月の川」の句に対し、その直裁性を評価はするが、句としては「惚れていない」と言っている(「俳句」一九七七年一月号)。

三、最初の批判
 反論はむしろ伝統派(具象派)から生じた。堂々と雑誌に載った論は野沢節子と鷲谷七菜子の対談が最初であろう(「俳句」一九七二年五月号)。句の発表後、三年経っていた。 
  
鷲谷 〈一月の川一月の谷の中〉あれどうなんでしょうか。
野沢 正直に言いますとね、私にはよくわからない。
鷲谷 わたしもわからないんです。あれ、皆さんよくほめられますけどね。
野沢 高柳重信さんは、あれ、激賞しているんです。
鷲谷 わたしは、あの句はある程度はわかるんですよ。一切を切り捨ててしまって、核をつかんでいるという点、それはわかるんです。ほんとうに核だけですよ、あれは。しかし、そのつかんだものが骨だけのような感じがして………。
野沢 肉付きがない。血が感じられない。
鷲谷 だからわたしは、同じつかむのならばはらわたをつかんで欲しいという気がします。なにか骨だけになってしまって、どうもわたしには………。
野沢 あれはイメージなんですか?
鷲谷 わからない、全然。一月の川一月の谷………でしょ、結局イメージなのかな。

 二人の対談は「言葉」と「前衛俳句」にまで及ぶ。鷲谷は、重信らが「書きながら考える」と言うが、ものから出発する鷲谷らの方法と違う、と言う。重信らが、「前衛と伝統と分けるのがおかしい、われわれはみな伝統だ」と言うが、伝統と前衛の違いは、自然と人間と一体の自然観に立っているか立っていないかが大きな違いであり、前衛派の言葉は浮き出してしまっていて、野沢に言わせれば「言葉の中に実体がない。抽象があっても実体がない」とまで言う。
 前衛派の中にも金子兜太のように、この句に共鳴していない人がいることを先に少し書いたが、伝統派においても、この句に対して違和感を抱いていた人々がいたわけである。それぞれが一本に纏まっていたわけではないのである。

四、擁護論
 野沢と鷲谷の批判をあげたが、同じ考えの俳人は少なくはなかったと思われる。しかし、
少し後になって、大岡信や山本健吉らが、この句の優れたところを読み取り擁護し始めたことからこの句に光が当り始める。
 大岡信はいう。

 俳句形式はわずか五七五から成る世界最短の定型詩である。この短さでは、散文と同じような形での「描写」は成り立たない。むしろ俳人は「描写の省略」によって対象を一挙にとらえるという行き方に賭けているといっていい。虚子の唱導した「写生」はまさしくそのようなものとして近代以降の俳句に一つの王道をしいた。龍太のこの句は、しかし、虚子流の写生さえも乗りこえてしまっている。形容も詠嘆も一切取り払ってしまい、ただ一つの状態をのべているだけだが、それがかえって、「一月の川」というものを丸ごとつかんでみせる結果になった(『名句 歌ごよみ〔冬・新年〕』)。

別のところで大岡信は、この句に雪の景を重ねて鑑賞している。

 この句は、龍太が力をふるうとき、どんな荒わざを平然とやってのけるかを示すいい例であろう。一月の川は、この句では、まず宙に吊られてあらわれる。(中略)ついで突然、われわれの眼は真逆様に一月の雪にうもれた谷へと誘われる。その谷の中に、一月の川は流れているのである。宙に浮いていて、同時に谷の中を流れているのが、「一月の川」というものなのだ(『飯田龍太の時代』)。

 ところがのち大岡信は、この句の舞台の狐川一帯は冬でもあまり雪が深くないことを知り、次のように書き加える。

 私の鑑賞はまことに強引なのかもしれない。「一月の川」の句に雪景を見ているのなど、甲州が元来雪の乏しい土地であることを考えれば、無謀な想像の脱線と斥けられても仕方ないかもしれない。しかしこの句が、右のような読み方を一向に不自然に思わせない句であるという事実を私は重んじる(『現代俳句全集』第一巻解説)。
 この句の背景に雪を感じ取るのはそう不思議なことではない、と筆者は思う。正木ゆう子もそうだ。彼女はこう書いている。
 雪の語は出てきていないが、真っ白な雪に埋め尽くされた山間を思い浮かべてしまうのはなぜだろうか。表記からくるシンプルな印象がそもそも白いのである。作者の家の裏手には狐川という、やがて笛吹川へと流れ入る小さな渓流があり、それを詠んだものだというが、受ける印象はもっとおおきな風景で、たとえばヘリコプターから見下ろしているように、雪に覆われた広大な山と谷の景色が見えてくる。真上から見下ろすその風景は左右対称でなければならない。この句の表記がほぼ左右対称だからである。左右対称の句というものもめったに作れるものではない(『現代秀句』)。

 ここで筆者が特筆したいのは、第一傍線部の雪もさることながら、正木がヘリコプター・ビューを言い出したことである。確かにこの句は、読者を雪の谷を流れる川を俯瞰できる高い場所へ連れて行ってくれるのである。
だが、この地に詳しい井上康明や広瀬直人は、雪には触れない。

 枯れ果てた一月の谷に川が流れている情景。一気の直感が、抽象的な表現を実現、繰り返しによって「一月」から来る、ものの初めの清浄、清潔な印象が広がる(『現代俳句大事典』、井上による)。
 (狐川は)名前のとおり、ほの暗い雑木林の栗や檪の根っ子の辺りからこちらを窺う狐の顔も現れそうな気配がある。(中略、龍太は自解の中で)「自分の力量をこえた何か」と言ったが、その表現の内面に踏み込んでいくには自分(広瀬)の力不足を思うよりほかはないが、私なりに今つかみえているのは、俳句表現への信頼性の表われではないかと思っている(『視野遠近』、広瀬による)。

 井上も広瀬も地元の二人はともに、この句の舞台の「一月の谷」は枯れた谷で、「一月の川」は水量の少ない川であることを了解している。つまり、実景には雪がなかったのかもしれない。しかし、それは大きな問題ではない。俳句というものは、「移調」という言葉が示すように、実景を再現させるのが目的ではないからだ。

 この句を育てたと言ってもよいもう一人の評論家山本健吉の鑑賞も掲げよう。山本は、前出の中村苑子がこの句をはじめて賞賛したときの言葉を取り上げ、苑子という一つの詩魂が受けた衝撃の強さを思いやるばかりである、と賛同し、返す刀で、野沢節子、鷲谷七菜子のような具象派の俊秀が、「血肉が感じられない」、「骨だけの感じ」、「摑むのならはらわたを摑んで欲しい」とか言い合って、その佳さを摑みそこなっている、と批判する。さらに、龍太が「幼時から馴染んだ川に対して、自分の力量をこえた何かが宿しえた」と述べたことを紹介する。それは作者自身、思惟を超えた境に得た句であり、それだからこそ、具象抽象の差別を超えて、読む者の魂を摑むのであると賞賛する(『定本 現代俳句』)。

五、他の賞賛の弁
 高柳重信、大岡信、山本健吉らによって名句に育て上げられつつあった「一月の川」の句に対しては、他にも多くの俳人たちの賛意がある。例をあげておこう。
 能村研三は「無駄なものを、一切省いた句の仕立てと、自然に対する従順な姿勢を、まず感じさせる句であった」と述べている(「俳句」一九八六年一月号)。
 福田甲子雄は「『一月の川』の作は、強い感銘を受ける俳人と、句にこめられている佳さのわからない側に立つ二派に分かれながら十六年の歳月を経てきた。そして、評価は名句として定着してきているが、これからも時代の流れと共に論議をよんで年輪を経ていくのではないだろうか。かつての正岡子規の〈鶏頭の一四五本もありぬべし〉のように………」という(『飯田龍太』)。

 ダメ押しに高柳重信の龍太評を掲げよう。
 高柳によれば、飯田龍太の俳句の言葉は、その初期の段階から、いつも一貫して凜とした響きを持っていて、同時代・同世代の俳人たちの中で、かなり卓越したものである、と言う。同世代の戦後派の俳人の中には、いわゆる技巧的なうまさを持つものも少しはいるが、しかし、その種のうまさを身につけることは、それほど難事ではなく、そのうまさに凜とした言葉の響きが伴わないといつしか厭味を生じ、次第に句の姿が卑しくなってくる。(中略)飯田龍太の俳句の言葉の切れ味は端正な品位を持ち、早くから「言葉を知っている」と思わせた少数の俳人の一人であった、と称える(『飯田龍太の時代』)。(次号へ続く)

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