堀節誉句集『澁』


 堀さんの第二句集『渋』(令和元年5月31日、現代俳句協会刊行)を読む機会を戴いた。彼女は「櫟」「花騒」を経て、大坪重治氏や西野理郎氏の励ましを得て、自由な俳句に挑戦してきたようだ。平成30年山口県現代俳句賞を貰っている。現在は前田弘さんの「歯車」に所属している。


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 自選句は次の10句。

  長い旅になりそうで雪が融ける
  骨拾う心構え大地芽吹く
  羽交い絞めにされるふっと春の雪
  空蝉に残る自分を抱くちから
  熱く触れあえるところに枇杷の傷
  カンナの緋叩かれるまで伸びよ
  会いたいかと問われしばらく背泳
  台風の来るとき目玉洗いけり
  この空気を持ちこたえ冬瓜抱く
  渋柿の渋抜けてゆく美学かな

 句集全体を読むと、右の自選句よりももっと自由な句が多いと気がつく。言ってみれば散文的で現代の一行詩のような句が多いのである。彼女が、如何に自由に先達のもとで肯定されながら育って来たかが分かる。筆者(=栗林)の俳句に思う理念とはかなり違うので、筆者はこの句集の良い読み手ではないであろう。それでも何かを書きたくなるのは、この句集の魅力なのかもしれない。一句一句にピリッとした感覚が感じられるのである。
 入集されている作品は、私流にひと言で言わせてもらえば、季語を使った口語一行詩であり、韻律をあえて遠ざけている。モチーフは重く、時には軽く、哲学的であったり、日常詠であったり、変化に富んでいて、それぞれに面白い。
 金子兜太は季語に拘らない(詩語は大切にしたが……)ものの、五七五の韻律は守ろうとした(大いなる破調は兜太に多いが、それでも、ぎりぎりの定型感覚を重要視している)。堀さんは、逆に、韻律を殆ど無視しながら、季語を守った。面白い試みである。思いっきり自由になりたいなら、季語も定型も両方を棄てる方法があるのだが、季語は律義に守っている。だが、韻律感の乏しい文体の中での「季語」は、これも私感だが、あまり響いてこない。長い歴史を背負った季語ではなく、たんなるモノ化してしまって、私の耳に入って来る。たしかに、現代俳句の中には、その様な季語の使い方をする流れがある。これを伝統的な姿の綺麗な有季定型にしてしまうと、堀さんが表現したい気持ちが、読者に伝わらなくなるのであろう。
 おそらく、彼女の先達は、現在の「歯車」を含め、自由な句柄を彼女に任せていたのであろうが、自由という名の、良い意味での「放任」だったかもしれない。つまり、その中で彼女は、自分の責任で自分の道を、自分の俳句を見つけて来なければならなかったし、敢然と、そうしたのであろう。

 筆者(=栗林)が共鳴した句は次の通り。(*)は自選句と重なったもの。

018 野水仙そろそろ母を辞めようか
020 抱くための白山吹を植えている
041 空蝉にのこる自分を抱くちから(*)
052 まくわ瓜信じてしまう重さなり
067 台風の来るとき目玉洗いけり(*)
069 新米を食べ人の死を受け入れる
070 冬隣ひとりのときの甘納豆
072 早春の母よもう頑張らなくていい
092 納骨はもののはじまり葉鶏頭
155 ソクラテスの妻になりたい冬金魚
177 敵のよう恋人のよう花氷

 数多くの有季自由律的作品から、筆者の好みにより、韻律感があり、書かれている中身に共鳴を覚えた句に絞って、右に掲げてみた。その中から(*)の二句を鑑賞しよう。

041 空蝉にのこる自分を抱くちから(*)
 小枝や草の裏葉に蝉がしがみついたまま殻になっている。それを、死しても自分に自分をを抱く力が残っている……と詠んだ。帯文では「残る」となっているが、本文では「のこる」である。筆者は「のこる」の方が好きである。「のこる」であれば、読者は「残る」とも「遺る」とも、考えながら読めるからである。

067 台風の来るとき目玉洗いけり(*)
 台風が来るというのに、なんで「目玉」を洗うのだろうか。医療行為の「洗眼」ではないとすれば、洗い髪の際に目まで洗ったのだろうか。しかし、それはどうでも良いことなのだろう。因果関係のない「台風」と「洗眼」という行為をただ詠んだだけで、俳諧味のある句になっている。現代俳句を書く作者に、この種の俳諧味の句があることを、筆者は喜んでいる。例としては、〈018 野水仙そろそろ母を辞めようか〉や〈070 冬隣ひとりのときの甘納豆〉などである。

 筆者にとっては、大変に刺激された句集であった。


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