塩野谷仁句集『夢祝』

 「遊牧」代表塩野谷仁さんの第八句集である(平成三十年三月十日、邑書林刊行)。帯には
   いまは昔のけむり真っ白夢祝
が引かれ、「無頼派くずれと自認しつつ、あまた身に負う傷を受け止め、いよいよ沈潜する胸懐を虚空へ放つ!」とある。いっとき、関西での仕事の上で大変なご苦労があったと仄聞しているが、句会の様子からは、「無頼派」というよりは「苦労人」で、気遣いの人、だと筆者は思っている。永年、兜太の弟子で、「海程」系列の同人誌「遊牧」を、広く認知させてきた実力俳人である。平成十九年、第六十二回現代俳句協会賞受賞。


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 自選句は次の通り。

  人麻呂の乗り込んでくる宝船
  如月という真っ直ぐな夜の木々
  後の世に辻もしあらば風船売
  花過ぎの水を掬えば水に闇
  鶏小屋のいくつ亡びし麦の秋
  どの木にも生年月日ありて夏至
  金輪際海月さびしきとき泛ぶ
  短夜のどの扉開ければ白孔雀
  蜻蛉より遠いところを日暮とす
  帰る道あるさびしさの真葛原
  たしかなる霧となるまで霧歩く
  龍の玉海の色否雌伏の色

 筆者の共鳴句は次の通り。(*)は自選と重なった。

008 寒の木の後ろも寒の木の平日
008 悔恨のごとく離れて一冬木
013 誰のものにもあらぬ青空菫咲く
017 鶏小屋のいくつ亡びし麦の秋(*)
018 遠い木に遠い風くる夏夕べ
020 闇に枇杷熟れゆく日なり飛鳥なり
030 記紀以後も木には木の影青飛鳥
033 六月のきれいな兎に逢いにゆく
039 いつもどこか日暮の地球鳥渡る
041 誰からも遠い時間を木の実降る
043 十三夜ゆたかに本の山崩る
052 遠野へ行きたし竹馬で行きたし
053 水底にとどく星ある寒の入り
056 昼の月押し上げている石鹸玉
058 つばくらめ鏡は一度しか割れず
063 桃咲くと人に待たれている如し
067 遠まなざし男にもあり麦熟星
076 木槿白花終わらないつらねうた
079 騙されてみたくて花野にて曲る
086 紅葉山いつも四五人遅れ着く
088 次の世はたとえば能登の囮守
101 日は雲の上にて遊び花まつり
103 麦こがしいまから逢える人幾人
105 青梅に触れれば遠き日の火傷
111 身にふかくけもの道あり滴れり
119 落日に重さありけり朴咲けり
146 木五倍子咲き誤植のごとく昼の月
148 誰かまた鏡をひらく鳥ぐもり
156 蜘蛛の糸辿れば遠き日のランプ
158 六月のきれいな距離を象歩く
161 だんまりにはじめとおわり日雷
163 百日紅男は日暮れどき老ゆる
168 約束はなんばんぎせる咲いてから
172 密談のごとくに揺れて烏瓜
173 桃吹いて十中八九ひとかなし
176 たしかなる霧となるまで霧歩く(*)


 塩野谷さんの以前の句集『私雨』などには、対象物との距離感覚と時間感覚を巧みに詠んだ句が多かった。今回の句集『夢祝』にも「遠い」「むかし」などの措辞があり、それらが氏の句の抒情性を増幅している。動物(孔雀、つばくらめ、蜘蛛など)がない訳ではないが、木や花が圧倒的に多いのも、この句集の特徴であるようだ。また、天文・地理からは、「星」「日」「日暮」「沼」「海」「地球」が多く詠まれており、それらが氏の詩情の「場」を提供しているようだ。いくつかを鑑賞しよう。

017 鶏小屋のいくつ亡びし麦の秋(*)
 安井浩司の〈ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき〉を思い出した。掲句は「いくつ」という言葉でもって、戦後の庶民の食を支えた「鷄」や「鶏卵」にかかわる時の流れを語っていて、ノスタルジーの中に社会性俳句的な味をも醸し出している。筆者の家にも小さな鷄小屋があって、朝、生みたての卵をとりに行ったものだった。勿論、今は無い。季語「麦の秋」は、初夏の麦刈りの時期で、実り豊かな景を想像させるから、上五中七の句意からは少しずれる印象があった。だが、小さなものが亡び、その上で今日成った繁栄に想いを致すと、この季語の配合を理解できなくはない。

018 遠い木に遠い風くる夏夕べ
041 誰からも遠い時間を木の実降る
 塩野谷さんの自家薬籠の措辞「遠い」と「木」が出てくる。これぞ塩野谷調俳句である。茫洋とした懐かしさを感じさせてくれる。「夏夕べ」の句のゆったり感。ポタと落ちる「木の実」の音に思い出す遠い昔。

030 記紀以後も木には木の影青飛鳥
 古事記・日本書紀の昔から「木」はこの地を覆っていた。その木の一本一本に日の「影」があったし、いまもある。永劫に変わらぬこととして、「木」には「影」があるという事実。懐かしき「飛鳥」も永劫のものだ。その飛鳥はいま初夏の装いで私の眼前のここにある。奈良吟行旅行での一句。「青飛鳥」の「青」が実に効いている。「青飛鳥」が季語かどうかは議論があるであろうが、「青山河」には佐藤鬼房や寺井谷子の佳句がある。

039 いつもどこか日暮の地球鳥渡る
 氏に、筆者の好きな句〈地球から水はこぼれず桜騒〉がある。この地球は、ここが昼であっても、何処かがかならず夜である。地球規模で詠む句のよろしさ。地球や宇宙を詠むと、得てして理詰めになったり、空想的になるのだが、季語「鳥渡る」(例句では「桜騒」)で映像化された。

053 水底にとどく星ある寒の入り
 作者の目は湖底か海底にある。そこに棲む魚の目で詠んでいるのかも。星の光が水底にまで届くというのは、詩人にのみ許される感受である。寒の季節の水は清澄だから届くのである、などと理詰めで納得するのは良くない。あくまでも詩なのである。

058 つばくらめ鏡は一度しか割れず
 たしかに「鏡」は一度割れたら大概はもう使わずに捨てる。だから「鏡は一度しか割れない」のである。配合した「つばくらめ」の離れ具合が絶妙。燕の直線的な俊敏な動きから、鏡の割れ具合にまで思いが至る。

101 日は雲の上にて遊び花まつり
 宇宙を詠むと空想的になると、先に書いた。それにリアリテイを持たせるのが季語である、とも書いた。「花まつり」にはあまりリアリテイを感じない。だから、掲載句は空想の世界に見事に浸りっ切りである。その意味で、逆に、感心させられた。

103 麦こがしいまから逢える人幾人
 塩野谷さんはまだ八十歳にはなっておられないが、人生の過半をいろんな人と巡り会ってきた。これから、あと何人、こころ動かされる人に逢えるのだろうか、とつくづく訝っているのである。この感覚は分かる。「麦こがし」が絶妙な渋味を出している。

148 誰かまた鏡をひらく鳥ぐもり
「鏡」は自らを見る道具なのだが、一方で奥行きの深い寓意を持つ。この世のどこかで誰かが、この時間に、きっと鏡を開いている。配合された季語が「鳥曇り」なので、その「鏡」はやや曇っていて、すっきりとはしていないのだ。名状しがたい魅力がある。

158 六月のきれいな距離を象歩く
「六月のきれいな距離」って何だろう? 〈033 六月のきれいな兎に逢いにゆく〉という句もあった。感覚的な措辞であって、あまり意味付けしない方が良いのであろう。塩野谷さんには、前の句もそうだが、はっきりとは説明しがたい魅力がある。理屈でないのだ。

176 たしかなる霧となるまで霧歩く(*)
 こちらは少し説明できそう。「霧」の中を歩いていて、自分がその「霧」にすっかり成り切るまで歩こう、というのだ。神秘性のある「霧」、そう、あの時の「霧」と一体感を持とうと願ったのである。「霧」に濡れるのを厭わないのだ。秩父吟句の折、おりから「霧」が素晴らしかったそうだ。

 塩野谷俳句の世界を楽しませて戴いた。

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