上田信治句集『リボン』

 「週刊俳句」でご活躍の上田さんが第一句集を出された(平成二十九年十一月三十日、邑書林)。『超新撰21』や『俳コレ』の編著でも著名な方であり、今回が第一句集であると知って、むしろ驚いた。だから期待しながら読み始め、第一句から新鮮な衝撃をもらった。


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  うつくしさ上から下へ秋の雨

 氏の作品は、表現の上からは、俳句の俳句らしさを拒否することで、対象から得た感動を、新鮮なまま読者に投げかける。俳句というものを十分以上にご存知でありながら、俳句らしさを、少なくとも従来の意味で言う「俳句らしさ」を抜け出そうとしている。
 掲載句は、俳句にどっぷり浸かってしまった俳人なら、
  うつくしや上から下へ秋の雨
  うつくしく上から下へ秋の雨
  秋の雨上から下へうつくしく
などなどへ推敲するはずである。しかし、氏はそうすることで失うものの多いことを知っている。この件については、「白茅」代表の中田剛氏が栞の中で詳述しているので、ここではこれ以上は書かない。

 さて、自選十一句を見てみよう(十句でも十二句でも十五句でもないところが面白い)。

  秋・紅茶・鳥はきよとんと幸福に
  うつくしさ上から下へ秋の雨
  椎茸や人に心のひとつゞつ
  雲光るはつふゆ中華料理かな
  自動車はシンメトリーで冬の海
  はくれんに風強き日やペンキ塗る
  桜咲く山をぼんやり山にゐる
  白い部屋メロンのありてその匂ひ
  こすれあく蓋もガラスの梅雨曇
  睡蓮や浴槽に日が差してゐる
  けふは降る雨ののうぜんかづらかな

 旧かな遣いで、「や」や「かな」もある。原則有季定型でもある。でも、新しさがある。

 筆者(=栗林)の共鳴句も挙げよう。(*)印は、上田さんの自選と重なったもの。

009 うつくしさ上から下へ秋の雨(*)
015 オレンジの断面冬の世田谷区
035 鉄の蓋開ければ蛇口ななかまど
036 狛犬のあたまに雪の高く積む
037 雪のうへ雪折の枝ならべあり
038 水よりも汚れてゐたる氷かな
044 ひもつけて鶏を飼ふ鳳仙花
055 よこむきに飼はれてゐたる兎かな
056 夕焚火見てゐる人が窓のなか
069 今走つてゐること夕立来さうなこと
074 CDのセロファンとれば雨か雪
089 雨の祭の金魚のやうなこどもたち
090 ひきだしの底板うすき麦の秋
098 電線にあるくるくるとした部分
099 風船はいまスリッパに載つてをる
102 ゆつくりと金魚の口を出る小石
110 上のとんぼ下のとんぼと入れかはる
111 雪がふるあたまをのせる枕かな
115 西口で買つた西瓜を北口へ
122 鶺鴒や雨はガラスに水となり
125 指は一粒回してはづす夜の葡萄
137 桜咲く山をぼんやり山にゐる(*)
139 困つてゐる蠅と時間の過ごし方
146 アメリカの秋の感じで抜ける釘

 大上段に振りかぶった句はない。勿論、社会性俳句的・前衛俳句的なのも、境涯俳句的なものもない。寓話的なのも、啓蒙的なのもない。難解な言葉はひとつもない。だが、一句全体を解釈するのに、やや手間がかかるものがある。言葉の繋がりが、予定調和的でないからである。
写生的な句が多い。だが、単純な写生のように見えて、それをそのまま解釈して良いかどうか、一瞬、読者がひるむ句が多い。139の「困つてゐる蠅」のような、とぼけた妙味のある句も多い。読者の解釈が当たっているかどうか、真意はどう考えたらよいのか、楽しく迷わせる句もある。例えば、146の「アメリカの秋の感じ」といわれても、乾いたアリゾナなのか、雨の多い西海岸のワシントン州なのか? いづれにしても、釘はさっと抜けたのであろうから、問題はないのだが………。上田さんは、トリビアルな事象に感興を覚えるひとのようである。誤解を恐れずに言えば良い意味で、所謂、俳諧的である。だが、古くない。
 幾つかを鑑賞しよう。

035 鉄の蓋開ければ蛇口ななかまど
 屋外の地面にある蛇口は大抵小さな鉄の蓋の下にある。だから蓋を開ければ蛇口があることは、誰でも知っている。なのにこういう表現をする。岸本尚毅に〈硝子戸を開けて網戸が顔の前〉があるが、そのトボケた味と同じであろう。ただ上田句の場合は、明らかに意図的な配合の季語として「ななかまど」がある。広がりを意図しているのであろう。

038 水よりも汚れてゐたる氷かな
 この句も長谷川櫂の〈春の水とは濡れてゐるみずのこと〉を思い出させる。よく見て書いた写生句であり、抒情をやめた句である。写生という行為が「非情」であることを思い起こさせてくれる。

044 ひもつけて鶏を飼ふ鳳仙花
055 よこむきに飼はれてゐたる兎かな
 面妖な句が二つ。044は、本当にあるのだろうか? とにかく、状況が面白い。055はある一瞬のことなのか、それとも見る度に、兎は横を向いてばかりいたのだろうか? たまたまなのかも知れない。そう言えば、筆者も思い出す兎の顔は、正面ではなく、横顔である。

056 夕焚火見てゐる人が窓のなか
 焚火を見ているひとを作者が見ていて、それを書いた。焚火は自分も見ている。窓の中の人もそれを見ている。温かい窓の中と、寒い外の様子を対比させたのかも知れないが、それ以上にトボケた味がある。

074 CDのセロファンとれば雨か雪
099 風船はいまスリッパに載つてをる
 この二句。トリビアルなものを詠んでいる。こんなものまで句材になるのだと驚かされる。上田さんは、俳句に志を託さない人のようだ。俳諧的なのが筆者(=栗林)の好みでもあるので、大いに気に入っている。

090 ひきだしの底板うすき麦の秋
 抽斗を抜き出して、中身を整理しようとすると、底板が意外に薄いことに気がつく。頼りないくらいである。それに健康的な季語「麦の秋」を配合した。この離れ具合が面白かった。

098 電線にあるくるくるとした部分
 何のことはない。碍子のことであろう。もったいぶって、このように俳句に書いてみるとおかしさが出てくる。無季句である。
 上田さんの句は、先に原則有季定型だと書いたが、例外的に無季句と思える作品もある。掲句のほかには〈スプーンに小スプーンのまじりをり〉〈ひものない鈴ことことと指に鳴る〉〈リボン美しあふれるやうにほどけゆく〉〈食堂は暗くてみづうみの景色〉〈屋上へ登るたとへば看護婦たち〉などである。この句集の題は「リボン」である。大歳時記に、リボンなる季語はない。これも上田さんの、古い俳句に対する挑戦であろう。とすれば痛快!

110 上のとんぼ下のとんぼと入れかはる
111 雪がふるあたまをのせる枕かな
 110はよく見る景で、何のことはない句。だが正面切ってこんなことを俳句にした人は少ないのではないか。111も同じ。「あたまをのせる枕」には何の詩もない。だが、「雪がふる」と行き会ったとき、何かが生まれる。それを第三者に分かるように解説するのは難しい。だから余韻が残る。

115 西口で買つた西瓜を北口へ
 安住敦ではないが、面白くて軽い句。この句が有名になったら、筆者は上田さんに敬意を表し、〈南口で買った南瓜を北口へ〉とパロディー化させてもらおう。楽しみにしている。

122 鶺鴒や雨はガラスに水となり
 雨は降っている間はあくまでも「雨」であり、ガラスに当たって流れだすと「水」に変わるのである。配合の「鶺鴒」の離れ具合もいいのであろう。上田さんは付き過ぎの季語は使わない作家のようだ。035、044、074、090、111もそうだった。

137 桜咲く山をぼんやり山にゐる(*)
 美しい筈の桜が咲いているのに、自分は孤独に浸っている。桜の山を見ているのではなく、その山に居る自分を第三者的に見て詠んでいる。ただ、自分への得体の知れなさ、所在の無さ、アンニュイ感が伝わって来る。

139 困つてゐる蠅と時間の過ごし方
「困ってゐる蠅」という描写が面白い。頻りに手を擦り合わせているのだろうか。その蠅を見て、自分の所在の無さと重ね合わせているのだろうか? アンニュイな宜しさ。


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