井上けい子句集『森の在所』

 井上さんが第二句集『森の在所』を出された(平成二十九年八月二十六日、文學の森)。氏は二十年程の句歴を持たれ、「水明」と「遊牧」に入られている。序文は塩野谷仁氏が、「井上さんは明晰の人である」と書き、多くの佳句を挙げておられる。


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 井上氏自身の自選句は次の十句である。

  胸中に砂漠のありて青嵐
  白薔薇を風に散らして鬱ほどく
  夕星に宙踏み外す酔芙蓉
  待ち過ぎて狂女となりし葉鶏頭
  夕紅葉鬼女の魂置き忘れ
  逢ふときは白いドレスを花辛夷
  秋蝉に森の在所を知らさるる
  夏果ての怒濤にムンクの叫びかな
  散骨の海果てしなく冬銀河
  白菜を割れば顕る観世音

 自選句を読むと、氏は実景を自分の身に引き込んだ上で心象にまで熟成させて句を書いている、と見受ける。知見や趣味の巾も広そうである。

 筆者(=栗林)の共鳴句は次の通り。うち(*)印の二句が自選句と重なった。

015 落椿炎ゆ百体の無縁仏
019 放牧の高原はるか遠郭公
024 夜半には群れて踊るよ梅雨茸
031 疵一つ遠き花野へ置いて来し
031 北海の波裏冥し鳥渡る
034 寝そびれてまたこほろぎの夜となる
038 歓声は遠くにありて枯野ゆく
040 ピアノ鳴り止まず氷柱の崩るとき
049 逢ふときは白いドレスを花辛夷(*)
049 囀りや千体仏の耳動く
051 照明を落としてよりの沈丁花
078 戒名は紅でしたたむ小六月
079 荒星やがらんどうなる地震の浜
081 花八つ手柩の人とは逢はぬ儘
087 藁苞に焔を秘めし寒牡丹
092 街おぼろ十二神将歩きをり
110 あたらしき墓標を目指し鳥渡る
111 秋の蝶草に堕ちゆき草になる
114 省略の極みの冬木凛然と
117 白菜を割れば顕る観世音(*)
131 花薺オリンピックまで生きようと思ふ
137 彼の世へは祭太鼓を鳴らしゆく
144 何事も無かつたやうに鳥渡る
154 魂のかけらか枯葉の駈けめぐる
162 野火猛る身の奥昏く炎ゆるとき
182 かいつぶり潜りて戻つて来ない夜
192 鳥帰るケーキの様な美術館
198 洞窟にのこる声あり沖縄忌
205 草の実をつけて汽車待つ遠野駅

(*)印の二句を鑑賞しよう。

049 逢ふときは白いドレスを花辛夷(*)
 井上さんの現在の生活環境や家族構成を存じ上げないので、勝手に想像させて戴く。但し、八〇歳前後のときの作であることは分かっている。だからノスタルジアの句だろう、と思った。異性と逢うとき、その時は春とは言えまだ名のみで、少し寒かったのだが、辛夷の花に啓発されて白いドレスを着て行ったのだった。辛夷の花は、若干の緊張感も想像させる。勿論、清楚でもある。そう思うと、この句は、実に「花辛夷」で成り立っている句であるかのように思えてくる。氏の若い頃のことを想像して鑑賞したが、現在ただ今のことでも、勿論、良いのである。

117 白菜を割れば顕る観世音(*)
 白菜を半割りにすると、周りは白っぽいうす黄色。中心部は無垢な白。中央下部にやや厚く白い葉の断面が曲線を描きつつ、何かを柔らかく包み込むように、重なっている。光背のようだと言えば言い過ぎだろうが、観音様を両手で守っているようにも見える。日頃見慣れている白菜でも、こうやって自分で割って見ると、自然の造化の妙を感じることがある。これは作者井上さんの感受性の豊かさを物語っている。失礼を顧みず、筆者の好みを言わせてもらえば、観音様は如来になることが約束されているもののまだ修行の身で、その身には装飾品を付けている。如来は悟りを開いた人で、身なりも簡素そのもの。だから、筆者は、白菜を割って顕われるのは如来の方が良いのではと思ったりしている。白菜の頭部は「螺髪」のようではないでしょうか?

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