高野公一句集『羽のある亀』

 高野公一氏が表記の第三句集を出された(平成29年4月3日、株式会社ネクサスライフ刊行)。氏は「山河」(山本敏倖代表・前代表は松井国央氏)に所属されておられ、その句会には筆者(=栗林)も時々お邪魔させて戴いているので、お人柄も、その上質な句柄も良く承知している。また、氏は他の俳誌などで時々お名前を見かけるし、現代俳句協会評論賞やドナルド・キーン賞にも輝いているほどの実績のある方である。


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 氏の自選句は掲げられていないので、筆者の共鳴句を挙げて、高野公一氏の世界を覗いて見たい。共鳴句は、350句ほどのこの句集のうち約80句に及んだ。異常なほどの高い確率である。これは氏の作品の志向するところが、あるいは氏の句が持っている風合いが、筆者の好みと割によく一致しているせいであろう。とまれ、幾つかのグループに分けて鑑賞してみよう。

1、端正な自然詠
052 穂すすきの上に海ある故郷かな
070 稜線を整えてより山眠る
159 ゆるやかに来て点描の鷺になる
179 一本の音になりゆく雪解川
209 夏山を離れぬ雲の暮れ残る
 一句目。故郷に近づくにつれて、前方遠くの海が手前の薄原よりも上にあるように見える。作者の視点は少し高いところあるせいで、海面ははるか沖までゆったりした登り勾配のようにすら見える。この景はあり得る。しかもその海はわが故郷である。芒の穂のあかるさもあって、抒情性豊か。
 他の4句もすべて端正な自然詠。目と耳とで写生をしている。3句目だけが生きものである鷺を描いた。鷺が着地(水?)したとき、景はぴたりと一幅の絵となる。
 これらの作品を最初に挙げたのは、高野さんの作品は実景がベースにある、ということを言いたかったためである。頭の中で捏ね上げた作品ではない。それは俳句作家としては「強み」である。だが、それは高野氏の唯一の特質ではない。この方向では、他にも優れた作家がいることは明らかである。氏の特質は、ここだけではなく、もっと別のところにもある。

2、ものを見る確かな目、細やかな目
010 山茱萸を見ていて雨の見えはじむ
010 土佐水木雨の中から雨降りくる
071 ふる雪のうしろを暗くふる雪よ
118 秋の雨平らな音で遠ざかる
 はじめの二句は、雨と春の花との取りあわせ。山茱萸は黄色、土佐水木も黄色である。作者の焦点は、はじめは花に絞られていたのだが、花のまわりの春の細雨にもだんだんと目が及んだ。そうすると花を取り囲む自然の「気」のようなものが奥行きを持って広がって来る。その「気」が花を包み込んでいる。そこに雨の糸もよりよく見えてくる。
三句目。この場面は雪国育ちの筆者には良く分かる。たとえば、街灯の照明の範囲に降る雪は、盛んに激しく降っている。しかし、その後ろの暗い空間には、同じように降っている筈の雪に、その勢いがない。照明の当たっている舞台と、そうでない場所に降る雪の見え方の違い。同じ雪なのに。
 四句目。雨が平らな音で遠ざかるとは、なかなか言えない。私雨が移動して行く感じ。

051 澄みきって水みずいろを損なわず
182 深みどり沈めて水は何もせず
 高野氏の確かな目をもって「水」を見ると、こういう作品となる。決して饒舌ではなく、水の本質を言い切った。

3、蝶に託す情念
012 一休みして初蝶に戻りゆく
012 蝶々の夢の中から出て行けず
037 日輪に毀れはじめる冬の蝶
061 飛ぶという未完のかたち秋の蝶
096 初蝶や呼びあう声のあるごとし
 抒情の源ともなる「蝶」を氏はよく取り上げる。一句目から五句目まで読んで行くと、これらの蝶はみな氏の化身であるかのように思えて来る。初蝶に戻るのも、夢の中から抜け出せないでいるのも、毀れて行きそうになるのも、誰かと呼びあっているのも、みな「蝶」の美しい描写なのだが、その蝶は、だんだんと氏自身に成り代わってゆくのだ。

4、女性を詠む
007 人類の最初の女鏡餅
086 耳朶のピアスの穴も緑の夜
197 背中から夏蝶放ち女来る
198 唇のふと開かれる夏帽子
「人類の最初の女」というと失楽園のイヴだろうか。対する配合の「鏡餅」とは恐れ入った。ふくよかな白い女体を思わせる。結構、難しい句である。これがこの句集の巻頭に置かれていることから考えると、思いの籠った一句なのだろうが、考え過ぎると深みに嵌りそう。だが、この一句からはじめて他の三句をも選んだので、一句目の解釈は責任重大である。
 二句目。普通はピアスの穴などは詠まない。少なくとも男性は詠まない。しかし、緑の夜にピアスではなく、その穴を至近に観るような位置関係にあったとなると、艶っぽい。妬ける句である。
 三句目。華やかな女性である。ひょっとすると背中が大きく開いたイヴニングドレスの女性だろうか。高野さんも隅に置けない。
 四句目。夏帽子の女性。映画の一場面で、カメラが朱唇をクローズアップしている。唇が気だるく開かれる。漏れ出る言語はフランス語に違いない。こんな読みを筆者にさせる高野氏は罪な俳人である。

5、空気のような二人
137 去年今年一人の妻と二人でいる
149 七夕の家の中にてすれ違う
 夫妻の日常をさらりと描いた。一句目のとぼけた味。二句目の牽牛と織姫がおなじ家に居てすれ違うという悲喜劇。それを悲喜劇のようにではなく、さらりと書いたよろしさ。案外多くの夫婦に通じるかも。

6、句の並べ方
047 億年の層に日の射す緑かな
047 緑陰に象形文字が落ちている
048 落ちてから全速力の毛虫かな
 この句集は句の並べ方に工夫を凝らしている。通常は編年体で四季別に並べる。氏はあとがきに、前半は逆編年体で、後半は自由に編んだと書いている。筆者の個人的意見だが、編年体も四季別も、俳句の世界だけの便利な、しかし、ずぼらな編み方だと思っている。だから、この句集の後半の自由さは興味深い。
 このこととは直接関係はないが、ここに挙げた連続する三句の並べ方が面白い。一句目の「緑」が二句目に引き継がれ、二句目の「落ちて」が三句目にバトンタッチされている。筆者もこのような尻取りのような作り方、編み方を試みたいと思っている。句集中の一句一句はもちろん独立してあるべきだが、纏まって文学作品としての味を主張するとすれば、このようなやり方もあって然るべきだと思う。

7、読んでハッとする句、エスプリ
127 落蟬のままで一度は鳴いてみる
166 涅槃図に死んでいるのはただ一人
228 国宝の臍の涼しき土偶かな
 高野さんのこの手の句に筆者はいたく惹かれている。読んでハッとする句である。川柳の機智とも違い、宗匠俳句の古臭いうがちとも違う。そこになにかしら重み、深みがある。わび、さびでもない。
ちょっと話題が逸れるが、誤解を恐れずに言えば、高野さんには、宗匠俳句再評価的な一面がある、と思う。宗匠というと、子規がみさかいもなく攻撃したため、彼らの作品の文学的価値は壊滅させられた。筆者は、このことを残念に思っている。連句も否定され、芭蕉も批判された。子規というわずか35歳で亡くなった天才の偉業を、重々承知しながら、今の世の現代的・宗匠的俳句をも少しは再評価すべきだと思っている。
 一句目。落蝉を注意深く見た句。死の寸前の一声か。こう詠まれて、はたと気が付かされた。あるある感である。
 二句目。そう言われれば死んでいるのは釈尊ただひとり。詠まれてしまって感じるのは、気持ちの良い「やられた」感。
 三句目。清々しいアイロニー。エスプリ。写生句的でもある。こういう句を筆者は大いに好む。

8、只事俳句のよろしさ
221 西東忌要らない箱を平らにし
 俳句愛好家の中には、メッセージ性を重要視し、俳句形式に無理をさせてでも、自然の非情さ、人の世の不条理や、命の悲しみを抉り出すような文学性を要求する向きがいるのは事実ではあるが、この句の中身は、ダンボール箱を平らにするだけ。この只事のよろしさ。このような句は、俳句を長い間やっていないとできない。俳句の叙情性とかメッセージ性とか、議論は多々あるが、案外こういうのが「俳句」なのではないか。逆に言うと、俳句でしかこういうことは書けない。
 俳句にメッセージ性が必要かどうかについては、いつか氏と議論したいものである。

 まとまらない高野論になった。読んでいてほんとうに楽しい句集だった。句集は、まず楽しくなきゃ。

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