昭和・平成を詠んでー柿本多映の世界

 高野ムツオ主宰の「小熊座」に、「昭和・平成を詠んで」シリーズとして、先輩俳人を訪ねて戦中戦後のご苦労をお聞きした記事を掲載して貰っている。平成28年の8・9月号に柿本多映さんを訪ねての記事が載りました。その前半をここに再掲致します。


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引用

 柿本多映の俳句開眼の一句は次の句である。

 出入口照らされてゐる桜かな    『夢谷』

 句集『夢谷★→ゆめだに★』(昭和五十九年二月、書肆季節社刊行)にある。序文が桂信子、跋文が橋閒石という贅沢な布陣の句集である。関西の超党派句会に出したもので、永田耕衣から「この句出したんはだれや、だれや」って訊かれて「私です」って言ったら、「へえーっ。多映さん、これ書いたはええけど、いま書いてしもたら、あと、えらいこっちゃねえ」と言われたという。この句は出入口が鑑賞の要である。耕衣は「異界」への出入口を思ったのであろう。多映が感じた出入口は目の前の具象のそれではない。心の奥に見えた何かの出入口なのである。そこがこの句の佳さ、耕衣のいう「えらいこっちゃ」なのであろう。読者を名状し難い世界に誘う。多映俳句の魅力の一つである。

――第一句集で、既にすごい一句を書かれたのです。桜は三井寺のでしょうが、限定しなくても良いですね。
柿本 そう、場所はどこでも良いのです。桜に魅せられ、その下に立ったとき、一気に口を突いて出てきたのがこの句でした。桜の季霊が書かせたとも言えます。先生方に、はじめて認められた大切な一句で私の原風景でもあります。

戦争俳句
――このシリーズ「昭和・平成を詠んで」では、戦争俳句があれば取上げるようにしています。柿本先生に戦争俳句があるようには思っていなかったのですが、今回見直してみて、銃後回想の句が結構多くありますね。
柿本 そうなんです。短歌は戦前から作っていましたが、それを止め、赤尾兜子について俳句に入ったのは昭和五十一年でした。ですから回顧の句なんですが、鮮明な銃後記憶が書かせたものです。辛い句ばかりですがね。
――こんな句がありますね。
    広島に入りて影濃き日傘かな   『蝶日』
    我が母をいぢめて兄は戦争へ
    茣蓙を巻くことも八月十五日
    敗戦日生米を一掴みする      『花石』
    牛乳瓶に雨降る八月十五日
    起きよ影かの広島の石段の    『仮生』
柿本 一句目は戦後の広島をはじめて詠んだものです。原爆の言葉は使っていませんが、暑い夏の「影濃き」で気持ちを籠めました。最後の句「起きよ影」は、今の若い人たちは分からないかも知れませんが、銀行の玄関の石段に坐っていた人が、原爆の熱線で一瞬に揮発してしまい、黒い影として石に焼き付けられてしまったのです。何とも恐ろしいことです。結婚して間もない頃、主人に連れられてはじめてあの銀行の前に立ちました。その人は、まだ銀行が開いていなかったから通帳を持って石段に坐っていたそうです。そこへ爆弾が落ちた。そして円い影になってしまったのでした。一瞬に刻印された人間存在の証明だったのです。被爆者だった私の友人が旅立ったとき、はじめて「起きよ影」って書くことができたのです。それまでに五十年もかかりました。それは「生」の傷痕としての「霊」を深く認識したからでした。
――二句目は実兄が出征されたときですか? お二人?
柿本 兄は三人でした。長兄は大学生のとき肺浸潤で亡くなりました。この兄には随分と文学上の刺激をもらったものです。兵隊に取られたのは次兄三兄の二人です。幸い外地に送られる前に終戦を向かえ、無事でした。その二人が、その後の三井寺の長吏を務めてくれています。例の玉音放送を聴いて、母は「息子たちが帰ってくる」と言ってその場に泣き伏しました。父は「泣くな」って母をたしなめていました。「いぢめて」と書いてありますが、「悲しませて」という意味ですね。わが子を戦争に取られる母親の気持ちをそのとき確りと感じ取ったのでした。
 その次に〈茣蓙を巻くことも八月十五日〉がありますが、あの頃隣接する軍の施設が攻撃され、寺の住職も負傷し、急遽、防空壕を作ることになったのです。その時、家に置いてあった茣蓙を敷きました。折り畳んでね。因みに茣蓙はもともと貴人の「御座」に敷くものだったそうです。
八月十五日を境に、陛下は現人神から人間天皇になられ、時代は大きく変わったのでした。終戦の解放感と共に複雑な気持ちでした。結局、防空壕は一度も使用されず片付けられました。「巻く」という行為を改めて思っています。
 四句目の〈敗戦日生米を一掴みする〉には、敗戦直後の三井寺のことをお話しせねばなりません。本山には扶持米というのがありました。蔵に貯蔵してあったのですが、食糧難でその米を解放することにしました。すぐに無くなりました。当時は米が貴重でして、米櫃を見る度に、ねえやが溜息をついていたのを覚えています。私たちを含めて食べ盛りの小僧さんにも、しっかりと御飯をという彼女の切ない愛情でもありました。「一掴みする」も、あの頃の切実な思いです。
 五句目の〈牛乳瓶に雨降る八月十五日〉はね、当時、牛乳などは余程のことでないと飲めなくなりました。一合のガラスの壜に入っていましてねえ。円い紙の蓋が嵌めてあります。それを開ける針のついた道具がありまして、パカっとあけるのが楽しみでした。ある時からその牛乳もなくなり、配達してくれていた少年のことは、すっかり忘れていました。後に、戦死したと聞きました。少年兵だったのです。雨が降っていました。

戦時の日常
――切ない時代背景が出ていますね。ところで戦時中はどんな毎日でした? 
柿本 女学校の三年生のころは農家の手伝いがありました。多くの農家が徴兵により人手不足でしたからねえ。はじめは麦刈り。次には米作り農家の手伝い。田圃では、泥田に浸かって蛭なんかに吸い付かれてねえ。稲刈では、私は手先が器用でしたから、稲を左手で掴み、右手の鎌で刈り取って、さっと結わえ、稲架にぽいと掛けます。上手かったですよ。次は葭刈り。近江八幡が葭の産地でした。所謂「援農」です。辛かったですよ。
 私は四修で京都女専(現、京都女子大)に入りましたが、翌年一月から工場への学徒動員が始まりました。京都の島津製作所です。金属棒を旋盤加工してナットを作る仕事です。目が良かったので製品検査も任されました。マイクロゲージという寸法精密測定器で検査します。飛行機の部品ですから責任があります。でもね、「特攻隊の飛行機用で、片道だけ役に立てばいいんだ」って、耳元で囁かれ、悲しかったです。朝四時に起きて電車を乗りついで七時から作業、五時まで続きます。食糧事情も悪かったです。小さなお握り一つと味噌汁だけ。お握りはコーリャン入りです。みんな栄養失調で、顔が風船のように浮腫みました。   
 機銃掃射に遭ったこともあります。大阪爆撃のついででしょうか、京都も攻撃されたのです。私は、丁度麦畑の傍の土手にいました。斜面から転がるように逃げました。右から襲われると左に転がり、左からは右斜面に、という具合いでした。私の学校、京都女専にも爆弾が落とされました。焼夷弾じゃなく殺傷目的の爆弾です。京都が爆撃されなかったなんて嘘です。東山区の馬町あたりが酷かったです。憲兵も後の進駐軍も緘口令を敷いたのです。学校に見に行ったら憲兵がいて、立ち入り禁止にしていました。校舎に落とされた不発弾を始末していたのです。
――戦後、三井寺にも激変があったでしょうか?
柿本 ええ。ご多聞に漏れず三井寺も宗教法人法の発令で、天台寺門派から天台寺門宗として発足しました。その頃、聖護院門跡など脱離した寺もありましたねえ。宗派の混乱期でした。円満院門跡も離れました。ところで、円満院には以前園城寺事務所があり、子供の頃は一山の会議などがあり、いつも賑やかでした。実家の光浄院のすぐ下にありましたから、裏からよく遊びにゆきました。明治天皇の御座所もありましたが、何より面白かったのは「放屁合戦」という戯画でした。何とも滑稽でした。この絵が覚猷★→かくゆう★つまり鳥羽僧正(園城寺第三十五代長吏)のものかどうかは分かりませんが、今もはっきり思い出しますから、余程印象深かったのでしょうね。
 話は逸れてしまいましたが、農地改革で園城寺(三井寺)の田畑も小作に移りましたし、当然年貢米の制度もなくなりました。戦前の生活とがらりと変わりましたが、反面随分気楽になったのが何よりでした。いろいろな改革があり、理不尽なことが多かったと思いますが、その波をひとまず乗り切った父を尊敬しています。

生い立ちと俳句へのきっかけ
 柿本多映(旧姓福家★→ふけ★妙子)は昭和三年滋賀県大津市の三井寺に生まれた。境内は「三井の晩鐘」で知られるような歌枕、俳枕としても著名である。芭蕉や蕪村の句も残されている。
  三井寺の門敲かばやけふの月     芭蕉
  三井寺や日は午にせまる若楓     蕪村
父は、天台寺門宗管長で、かつ総本山園城寺(三井寺)の第百六十一代長吏★→ちょうり★であった福家守明★→しゅみょう★大僧正であった。その後の長吏には、多映の次兄福家俊明★→しゅんみょう★が、その次は三兄福家英明★→えいめい★が選ばれている。長兄は、先に述べたように、大学生のときに亡くなった。
――境内の雰囲気などをお話し戴けますか?
柿本 普通のお寺の感覚とはちょっと違いました。境内には山や谷があり、小暗い路傍には銀龍草(幽霊草)などがありました。小さいときこれを見つけて飛び上がりました。お化けか幽霊かって。そのときの驚いた自分の姿・顔を今でも覚えています。そのあたりは不思議な場所だったんです。大木の枝から得体の知れない寒天状の塊が降ってきて、地面に転がっていました。触りたいのですが気持が悪かったので、母のところへ息せき切って駆けつけ、訊いたら、「あれは魂が落ちているんです。だから触ってはいけません」と言われました。ああ、ひとの魂ってこんなものかなあって思いました。それらが私の心に焼きついているんですね。仁王門から実家に続くこの道を私たちは「細道」と呼んでいました。また山内の奥深くに無縁墓地があり、身元不明の人が埋葬されています。早くに身元が分かると、市の人が来て、遺体を大八車に乗せて返すんです。たまたまその大八車とすれ違ったことがあるのですが、供の者が「眼をつぶりなさい」と言って、私の手を引いて走るんですが、私は不思議に平気だったんですね。これがひとの死なんだって、ぼんやりとそう思っていたようです。
また、裏山には「つちのこ」……ここでは「御八寸」と言っていますが、短い蛇が出たんですよ。胴回りが八寸なんです。草刈していた女の人たちが鎌を抛りだして逃げ下りてきました。後で、兄たちと探検に行ったりして……。
三井寺のような本山では葬式はやりません。ですが、近くの少年飛行兵学校の子が三井寺の近くの古井戸で自殺したときはあまりにも可哀そうだったので父が弔いをしました。そうしたら、その筋から「非国民になぜそうするんだ」って詰問されました。父は「何びとに対してもその死出を飾ってやるのは僧侶として当然だ」って反論していました。
――そんなこともあったのですね。ところで、俳句のきっかけは確か赤尾兜子でしたね。寺という最も古めかしい印象を与える環境に育たれましたが、実態は自由主義的であったようですし、最初の師がかつて前衛の旗手で「渦」の主宰赤尾兜子でしたから、多映先生の句柄が現代俳句的である訳も分りますね。昭和五十一年に「渦」に入り、五十五年には「渦」賞を貰っています。次席は岸本尚毅でしたね。多映先生の俳句作品には、兜子との縁を思わせるものがあります。 
 私が勝手に選ばせて戴いた句に、次の句があります。
   大雷雨鬱王と会うあさの夢      兜子
   立春の夢に刃物の林立す      多映
   心中にひらく雪景また鬼景      兜子
   風景の何処からも雪降り出せり   多映
 また、その後の師または俳友の句も掲げます。
   雪山に頬ずりもして老いんかな   閒石
   いつの世も朧の中に水の音     信子
   夢の世に葱を作りて寂しさよ     耕衣
   太古より堕ちたる雉の歩むなり   悟朗

鬼房さんのこと
――さらに、こんな句があります。
     鬼房と蓮池まではゆくつもり   『粛祭』
柿本 鬼房さんは私の尊敬する先輩俳人のお一人でした。お会いしたのは東京での攝津幸彦を偲ぶ会のときだったと思います。その後、増田まさみさんと連れ立って月山に行きました。でも閉じられていまして、湯殿山(筆者注、御神体は女陰を擬した奇岩で湯が湧いている)に廻りました。その帰り塩釜に鬼房先生を訪ねたのです。先生は生憎入院中でした。でもわざわざベッドから降りて面会室へ来られ「おおそうか、湯殿山に行ったか! そこまで行ったか」っておっしゃられて、私たちを歓んで迎えて下さいました。その後で、ムツオさん、誠一郎さん、佐藤きみこさんたちと歓談できたのも楽しい思い出です。
――そうですか、良かったですね。増田さんは「小熊座」の表紙を描いておられる方ですね。多映先生は良い先輩を大勢お持ちです。こんな句もあります。
   兜子閒石耕衣鬼房敏雄留守   『粛祭』

震災句
――銃後の俳句以外に当然「震災」に関する作品もあります。阪神淡路と東日本大震災です。
  地震のあと四の五の言はず鯰食ふ  『白體』
   倒壊のあとの大きなかたつむり   
   目印は小さな靴です鷗さん      『仮生』
   ひんがしに米を送りて虔めり
柿本 阪神淡路大震災では、永田耕衣さんのことが思い出されます。ご自身は助かりましたが、最晩年の入院中は悲しい思い出です。お見舞いに行きましたら泪を流して喜んで下さいました。思わず頬ずりをしてしまいました。
――一句目の「鯰食ふ」はあえて軽く書かれたのでしょうか? 地震の元凶である鯰を喰らうことで被災者への元気付けをされたのでしょうかねえ。
柿本 この句には後日談があります。神奈川県のある私立中学校の入学試験にこの句が出たんです。正確には覚えていないんですが、この句の一ヶ所を伏字にして、〈地震のあと四の五の言はず○食ふ〉だったかなあ……○を埋めよっていう出題なんです(笑)。
二句目。〈倒壊のあとの大きなかたつむり〉は、阪神淡路大震災で友人のマンシヨンが倒壊しました。全財産をつぎ込んで買ったんですが、もう年齢ですからどうも出来ません。それに比して「かたつむり」は家を持っているから良いなあって。でも蝸牛の家は同時に哀しみでもあります。
――そうですね。「でんでん虫のかなしみ」という童話がありますね。殻には沢山の悲しみが詰まっていると……背景を知ると哀しみが湧きますね。
柿本 東日本大震災では、やはり津波と原発ですね。非力な自分を思い、怒りと悲しみが募りました。
三句目の〈目印は小さな靴です鷗さん〉は、津波の犠牲者への祈りと希望の句です。それを鴎に託しました。
――犠牲者は、少女でしょうね。鴎に、私に代わって捜して下さいという思いですね。
四句目の〈ひんがしに米を送りて虔めり〉は、慰問の意味で米を送られたのですか?
柿本 ええ、地震災害以外に放射能汚染でお米が採れない。それに一時、流通問題があって水や石油が大変だったでしょう。お米も役に立つかなって思って、Sさんにお送りしました。若い人たちが心を合わせて友人を励まそうとしていたのですが、私も一枚加わらせて戴きました。

引用終わり

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