鳴戸奈菜著『詩の旅』

 鳴戸さんが既発表の評論やエッセイを纏め、『詩の旅(うたのたび)』を刊行された(平成28年11月7日、現代俳句協会)。
内容は次のとおりである。
① 「俳句における間(ま)」(共立女子大の『文學藝術』11号、昭和63年2月)、
② 「俳句と〈火〉 歳時記を中心として」(同上、16号、平成4年7月)
③ 「近代女性俳句の出発 『ホトトギス』と竹下しづの女」(同学、『研究叢書』第16冊、平成10年2月)
④ 「俳句月評」(東京新聞夕刊、平成26年1月―12月)
⑤ 「詩の旅」(永田耕衣の「琴座」昭和62年7月より平成7年11月までに毎号掲載)


画像



 
 筆者(=栗林)の好みで、まず③を読んでみて面白かったことを書いてみよう。
 女性俳句の出発点は、虚子の所謂台所俳句であった。しかし当時、女性が外へ出て俳句を楽しむには、いろいろなムード的な制約があったようだ。虚子は、高浜家の家業としての「俳句」を家族に知らしめるために、教育的態度で始めたものらしい。高浜家以外からも参加があったためか、一般女性が俳句の会に参加することは、風紀上けっして危険なことではないことを知らしめるため、男は虚子自身と内藤鳴雪だけが指導者として出席することとし、
    男女が一緒の場所で俳句をする訳ではない
 ことを強調した。さらに、吟行などは、
    近くの神社仏閣などを女性だけで「お参り」する
のが普通であったようだ。家の夫や姑・子供たちが、あらぬ心配をせず、嫁や母を安心して出せるようにするためである。思えば、今でも俳句の吟行に神社仏閣が多いのは、この影響であったかと、膝を叩いたのであった。
 ③の記述内容は、竹下しづの女を詳述したもので、大いに参考になった。

 次に、⑤の部分を読んだ。多くの俳句があげられ、鳴戸さんの鑑賞が書かれているので面白く読ませて戴いた。対象の句の中から、筆者も興味があって、筆者なりに鑑賞・論評を書いたことのある句、あるいはこれからじっくり考えたいと思っている句を挙げておこう。

  白牡丹といふといへども紅ほのか     高浜虚子
  晝顔の見えるひるすぎぽるとがる     加藤郁乎
  一月の川一月の谷の中           飯田龍太
  戦争が廊下の奥に立つてゐた       渡邊白泉
  階段を濡らして晝が來てゐたり       攝津幸彦
  ちるさくら海あをければ海へちる      高屋窓秋

 次の3句について、氏の鑑賞と筆者の感想を掲げておこう。

  晝顔の見えるひるすぎぽるとがる     加藤郁乎
 鳴戸さんは次のように書いている。
「『晝顔の』『見える』『ひるすぎ』『ぽるとがる』といった各フレーズの言葉は、意味が希薄で、それが繋がっても積極的な意味を構成しない」
「『ひるすぎ』から直下に『ぽるとがる』と続くが、なぜ『ぽるとがる』なのかと疑問を抱かせる前に収まってしまうところが妙である」
 全くその通りである。この種の句を鑑賞する際、先達は「意味を探ってはいけない」「音で楽しみなさい」と言う。そして、この種の句は「言葉の意味を剥奪することから始まっている」とアドバイスする。だが、そうだろうか。俳句は言葉で書かれる。言葉には複数の意味がある。加藤郁乎は、その言葉の意味を全否定して書いているのだろうか。そんなことはないと筆者は思う。もし純粋に音を楽しみたいなら、五線紙に音符を書き、発音をひらかなかローマ字で添える方が音とリズムはよく伝わる筈である。一個一個の言葉はそれなりの意味を持っている。あるいはイメージを持っている。問題は、それぞれの言葉の繋ぎ方が、大多数の一般の人たちのやり方と大きく違うだけである。筆者の意見は、それぞれの言葉の意味を勘案しながらイメージを浮かべつつ、しかも、音やリズムをも楽しむべきだと思う。

  一月の川一月の谷の中          飯田龍太
 鳴戸さんは多くの俳句先達と同じく、この句を次のように高く評価している。
「この句は、一月、川、谷を流れている、とだけいって作者がそれをどう思ったという事柄は省略されている。しかしトリビアルな巧緻さを積み重ねることによって、一月の荒涼たる風景を出現させ、それを手繰ってゆくと作者のその折のキッパリとしているが沈んだ孤影を見出すことができよう。外見、川とか谷を詠みながら、実は非常に内面的な世界をこの句は展開しているのである」
 そうだと思い、感心しながらも、筆者にはしっくりこない何かがある。まず疑問なのは「一月の荒涼とした風景が出現」しているだろうか。この句を鑑賞した先輩俳人の文を多く読むと、ある人は雪の谷を思う。しかし、広瀬直人や井上康明は、案外雪が少ないこの土地のことを知っているから、雪のことには触れない。この句に批判的な論文は何といっても筑紫磐井の『飯田龍太の彼方へ』であろう。たしか俳人協会の若手の評論賞を受けた著作である。ここでは繰り返さないが、決して、無条件でこの句を賞賛していない。色んな意見があって然るべきだが……思えば、この句を最初に誉めそやしたのは、前衛俳句の言葉派と言われていた高柳重信であった。
 この句に対する先輩俳人らの称賛と批判については、筆者が「今」(瀧澤和治発行人)の8・9号(2014年冬号と翌年の春号)に寄稿してあるので、ご興味の方はご参照下さい。

  階段を濡らして晝が來てゐたり      攝津幸彦
 鳴戸さんは、この句を写生句でもないし、さりとてその意味を汲もうとしても読者は立ち往生してしまうような句である、と述べる。さらに、次のように続ける。
「そもそも、作品を意味抜きで考えることは可能であろうか。俳句が言葉で構成されている以上、私は無理であると思う。一つの言葉は、大まかなところで一つの象徴的な意味を伝達する。たとえば『階段』は、ものが上下移動する際使われる段状のもの、であって机や椅子ではない。また『晝』は昼であって朝でも夜でもない」
 意味を離れて俳句は鑑賞できない、という鳴戸さんの意見に大いに賛成である。郁乎も幸彦も言葉の意味を意識したうえで作句している。ただ、言葉の繋がり方が並みでないので、分からなくなる部分が多いのである。分からなくなった人が「彼らの作品は言葉から意味を剥奪している」と主張する。そんなことはない筈だ。
 この句についても、多くの先輩諸氏の鑑賞があり、中には噴飯ものもある。筆者もこの句の鑑賞に挑戦したことがあった。幸彦の句にはどこか少なくとも一か所ヘンな言葉が挿入されている。この場合は「晝」であるが、例えば次の句では、
  花ありて中心ありぬ夜の雨     における「中心」    本当は「心中」ではないのか?
  堤防の男がきつね淋しいのだ   における「きつね」   本当は「きっと」ではないのか?
  子宮より切手出て来て天気かな  における「子宮」    ひょっとすると「抽斗」では?
  水道が妻と麦とにわかれけり    における「水道」    木道であり、麦は妻の字との類似性から?
あきらかに「中心」「きつね」「子宮」「水道」という言葉がヘンである。このようなヘンな言葉を、その意味を知ったうえで、幸彦はあえて俳句の中にはめ込んで、悦に入っているのである。このことを取り上げて言葉派の作家の作品を解剖してみると面白い。そのうち、飯島晴子や高屋窓秋の作品も取り上げて論じたいと思っている。
 
 鳴戸奈菜先生、有難うございました。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 5

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い 面白い
ナイス ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック