高橋比呂子句集『つがるからつゆいり』を読んで

 高橋比呂子さんが第4句集にあたる『つがるからつゆいり』を出された(平成28年1月3日、文學の森刊行)。高橋さんは、40数年前から句作を始められ、現在「豈の会」「LOTUS」の同人。前衛的な言葉派的作品を書かれる。
 なお、彼女は初め虚子の直弟子の増田手児奈に学んだが、有季定型そのもののところだった、という。季語が持つ日本人にとっての集合的無意識的要素を十分に意識したうえで、崩して使うことがある。実験的で、自分らしさへの挑戦である、とお考えである。


画像



 自選13句は次の通り。

   絵本魔術師つがるからつゆいり
   金木にはかんなぎかなづちななかまど
   うわさせりせんだんぐさの料理人
   手品師のはつゆきかならず偏頭痛
   窯変や雪女郎にまだとおし
   一日と、三日七日と飛花落花
   切腹には美しすぎる蠛蠓よ
   空蝉に五人倒れて道明寺
   老子にも臍あるごとし大垂水
   蠟梅よりもきのうのことは馬の領分
   太郎ねむる七月のさかあがり
   ぽすとからとぽすまでの冬銀河
   蘭奢待ゆきもかえりも吹雪かな

 見て通りの難解句が多い。一方では、上から2句目および下から2句目のように、音を楽しむ句もある。

   金木にはかんなぎかなづちななかまど
   ぽすとからとぽすまでの冬銀河

 さて、筆者の選んだ句を掲げよう。正直言って筆者(=栗林)のような平均的読者にとって、この句集は極めて難解であった。まさに「LOTUS」の同人らしく、鑑賞する読者を峻別するようである。難しいと言っても、作者の高橋さんにとっては、極めて当たり前の作品であるに違いない。しかし、私にとってのその難しさの理由は、極めて主知的な句が多いこと、言葉と言葉の繋がりが当たり前の関係にないことなどである。つまりすべてが予定調和的でないのである。それは決して悪いわけではない。むしろ称賛に値する。類想的な句が殆どないのはそのせいであろう。オリジナリテイの高いそれらの中から、かろうじて作者の意図したところに私の理解が少しは及んだかなと思える作品を掲げる。

018 母と娘のみづいろ濁りだす晩夏
042 きさらぎのかぜのゆくえやえふりこき
054 虚空から紐垂れてくるはるの海
086 風のなか風をみにゆく河骨や
097 紙で手を切る湿った漢かな
124 新宿をきみどりいろに妻待てり
130 羅や闇よりも濃くあいにゆく
130 羅や闇よりも濃く別れけり
131 柿若葉嘘つきとおすくすりゆび
141 カフカ忌の塔に月光刺さるかな
141 カフカ忌の両腕のおもさかな
144 立秋や包帯まいてあいびきしたり
146 秋なすびきのうとおなじ風吹いて
167 クリスマスツリーの先端戦火燃え

 極めて自由な句作りを楽しんでおられ、羨ましささえ感じる。その自由さとは、かなりの無季句があるものの、原則有季定型である。しかし、字足らず、字余りがあり、新かな一辺倒でもなく、敢てのひらがな表記、などなど、一瞬気になるものの、それが微妙な味を出しているから不思議なのである。
 つまるところ、俳句の表現の仕方は、氏の作品のように自由で良いのであろう。私たちは好き好んでルールに縛られたいとしているようだ。発想もその通り。万人に分かってもらえるような、予定の範疇にあるような作品は、つまらないものに違いない。しかしながら、氏の自由な発想が空中分解しないでいるのは、やはり定型を基調とする俳句形式の恩恵が故であろう。
 言葉が言葉を呼び、その結合体がどんどんと膨らんで行き、結果として予定になかったようなイメージや詩が見事に立ってくる。
 掲げた句をすべて鑑賞し、どんな詩が立ったのかを解説したいのだが、筆者の読解力がそれを許さない。じれったさが残るのである。気に入った句を上にならべたが、鑑賞は諸賢に委ねたい。

 ここまで書いて、小生のブログに載せようかと思ったが、念のため高橋さんの作句姿勢を伺いたいと思った。あくまでも自分の勉強のためである。それで、簡単な質問をお送りした。高橋さんは健康上の問題を抱えておられていたようだが、丁寧な回答を下さった。その概要を抄録しよう。

質問 窯変や雪女郎にまだとおし は565です。これを 窯変や雪女郎にはまだ遠し
では、高橋様の趣旨からすると、いけないのですね。
回答 原句の方は「窯変」と「雪女郎」の間に、揺らぎを感じます。「とおし」は「遠し」よりもストレートになりません。提示句のように「には」を入れると、強調されますが説明的になるような気がしないでもありません。どちらも良いのかも知れませんが、原句は現在進行形で、揺らぎがあり、提示句は客観的に遠くから見ている感じがします。従って、原句の形を選びました。

質問 ぽすとからとぽすまでの冬銀河 は同じく565です。これを575にできないのでしょうか? あえてそうする必要がないかもしれないと思いながら、お伺いしております。
回答 常に、575を意識せずに作句しております。その句ができた時のリズム……体内リズムというか……を大事にしております。

質問 紙で手を切る湿った漢かな も同じ質問です。
回答 紙で手を切る/湿った漢かな のつもりで作りました。私は、「575と季語があれば俳句」というスタンスは持っておりません。警句(エピグラム)ではありませんので。

質問 カフカ忌の両腕のおもさかな は カフカ忌の両の腕(かいな)の重さかな ではいけないですね?
回答 代案の方が「両腕(りょうわん)」とするより実感が出ます。「おもさ」より「重さ」の方がこの句の場合はリアリティがあります。

質問 立秋や包帯まいてあいびきしたり は577で、私にとっては許容範囲かと思いますが、「逢引したり」と漢字表記すると、原句の味が損なわれますか? 多分そうだと思いながらお訊きしました。
回答 広辞苑で「あいびき」を引くと5個ほどの項目の意味がでてきます。この句の場合確かに「逢引」のつもりでつかいましたが、平仮名の方が、やわらかく、漢字よりも、真剣さ、深刻さを感じさせます。戯れの要素が多く感じられるようになります。それに「あいびき」の多義として、敵味方がお互いに弓を引くこと、敵味方がともにひき退くこと、があり、おもしろさも加わります。「包帯まいて」は、ペルソナを隠して、という意味も感じられますが、あいびきせざるを得ない状況から、精神的、肉体的傷を負っていることも感じられるかも知れません。「逢引」よりも「あいびき」の方が、ひめやかさが出るかも知れません。

質問 母と娘のみづいろ濁りだす晩夏 は、ここだけ「みずいろ」ではなく旧かな表記にされた意図は?
回答 「づ」の方がやわらかく趣が出ると思ったからです。

質問 虚空から紐垂れてくるはるの海 は「春の海」ではいけないのですね。「はるの海」の方が柔らかいですかね。しかし、意味の違いがありはしまいかと、悩みます。
回答 確かに悩むところです。一句の中に漢字がおおすぎて句の重量が増し過ぎる感があります。迷うところです。

 以上のように、誠意ある回答で、勉強になりました。筆者(=栗林)の感想・意見としては、自由に俳句を詠んでおられることに羨望さえ感じます。高橋さんのお考えは大いに理解できます。自由に詠むなら季語にも定型にも執着しないのが良いと思いますが、厳格な定型ではないものの、「定型感」には拘っていること、無季の句もかなりの数があること、などから、高橋さんのお考えを理解しているところです。
 自由でありながら、言葉の多義性を醸し出しながら、冒険が出来るのは、やはり俳句が短い「定型」詩であることの賜物ではないでしょうか?

 有難うございました。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック