豊田都峰句集『林の唄』鑑賞

 豊田都峰さん(現代俳句協会副会長・「京鹿子」主宰)が平成27年に急逝され、驚いたものだったが、もう一年たった。お嬢さんの豊田恵さんが、この度遺句集を出された(東京四季出版、平成28年7月1日刊行)。そのお手伝いをされたのが筆者(=栗林)の知人の「京鹿子」の同人高木晶子さんで、筆者にも鑑賞の機会を賜った。



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 現主宰の鈴鹿呂仁氏が15句を選んでいる。まずそれを掲げよう。

  郭公のさそふ林をふもととす
  わが影へさそへば音とくる木の葉
  星ひとつ林に咲いて冬はじめ
  丸木橋のむかうひぐれの二輪草
  山吹の咲き川すぢとなりにけり
  春浅き林は風の棲むところ
  林出て里へひとすぢ日永なる
  風を聞く穂草のあたり村ざかひ
  若葉青葉プロムナードは水に沿ふ
  何ひとつ疑ひのなき日の枯木
  風の音遠ざけてより山眠る
  木もれ日は遠かなかなのさそひ径
  野にひろふ露のしるべのふたつみつ
  春さぐる林の径はすぐ消えて
  ががんぼよ向かう岸までおれもゆく

 お気づきのようにこの句集『林の唄』に因んで「林」の句が多く選ばれている。一読して気が付くのだが、この句集は、林・山・川・湖が実に多く詠まれている。人や自分があまり多くは出てこない。端正な自然叙景句集なのである。だが、最後の一句、

    ががんぼよ向かう岸までおれもゆく

は衝撃的な句であった。人があまり出てこない句集の最後の一句が一人称の句なのである。絶唱というべきか。

 さて、筆者の抽出句は50句以上に及んだが、中から10句を鑑賞させて戴こう。

007 郭公のさそふ林をふもととす
060 川風と来てかざはなの小督塚
078 ひとすみは月のあぢさゐあかりなる
085 遠花火山黒々とのこりけり
140 水替へて金魚を空にもどしけり
145 避暑の身へ山限りなき星ふらす
181 きさらぎのゆび細くして弥勒仏
223 落ち鮎のころは山より雨のくる
260 初蝶のこぼすがごとき日の粒子
280 ががんぼよ向かう岸までおれもゆく

007 郭公のさそふ林をふもととす
第一句。都峰さんの今までの句集は『野の唄』『川の唄』などが続き、絶唱がこの第十句集『林の唄』であった。お嬢さんのあとがきに依れば、遺こされたフロッピーを探して、この句集の名前を『林の唄』にしようとされていたことを知った、とある。
 句意は、山の麓に位置している「林」には郭公がもうやってきていて、その声を聴いているとそこに誘われるような気持になる、ということ。地方によって、郭公の初鳴き日付が大体決まっていて、その都度報告される。筆者の住んだ札幌の場合は6月中旬であったような記憶がある。札幌の市の鳥である。お祭りの日に近かった。麓の林は郭公と人の世界とが隣接するところ。つまり人と自然の接点だということである。

060 川風と来てかざはなの小督塚
 小督塚とあるから渡月橋の近くであろう。すると川風は大堰川の風である。折しも寒い風が風花を連れて吹いて来る。小督は、高倉天皇から引き離された悲劇の琴の名手。都峰さんには嵯峨野界隈や琵琶湖周辺の句が多い。小督という固有名詞に依存した句であるが、自然詠の多いこの句集にあって、歴史的な詩的な広がりを齎す句であると、筆者は大いに気に入っている。

078 ひとすみは月のあぢさゐあかりなる
 視界の一隅に紫陽花が咲いており、それが月明かりに照らされている。大方は夜の暗さに消されているのだが、紫陽花の一叢だけが明るいのだ。印象鮮明でしかも静寂。「あぢさゐ」なる旧かな表記がイメージを深めてくれる。

085 遠花火山黒々とのこりけり
 四句目。平明な叙景句。遠くで花火が上がった。目には見えるが音は聞こえない。一方が海か平野の方に開けている街かも知れないが、作者は山際に住んでいるのだろう。暮れなずむ山がくろぐろと迫っている。都峰さんの原風景なのかも知れないと思って頂いた。この前に〈遠花火音なく消えてよりのこと〉の句があるし、次の句は〈手花火に背ナよりくらき深さあり〉である。実は「春野」の名誉主宰黛執さんの句集『野面積』に〈秋まつり大きな山の影の中〉があって、通底する懐かしさを思った。

140 水替へて金魚を空にもどしけり
 不思議な句である。鉢に戻したのではないのだ。「空」に戻したのだ。「空」を「そら」と読むか、「くう」と読むか、「そら」としても、放心状態を表す「そら」なのか。極めて現代俳句的で、面白い句である。平明な叙景句が多い中にあって、特異である。そこに惹かれた。
 実はこれと同じく不思議な句がある。〈126 しやぼん玉はじけて童も果てにけり〉である。シャボン玉がはじけたとき、「童も果てにけり」ということはどういうことだろうか。童が死んでしまう訳ではないだろうから、童心が消えてしまった、少年時代は終わったのだ、と言う意味に読むべきであろう。都峰さんがノスタルジーに耽る時間も、シャボン玉が消えた瞬間に終わってしまった、ということだろう。

145 避暑の身へ山限りなき星ふらす
 氏のこの句集にはあまり人やおのれが出てこない。だが、この句は避暑に来ている自分自身である。筆者も長野の高原の避暑地のホテルで星を楽しんだことがあるが、そのためのハンモックが前庭にあった。高原の星空は、都会では見られない壮観である。しかも星座の一つ一つが詩的である。ふと思い出した、〈星全部はだかで光りダリアの上 依田明倫〉という句を。星のまたたきは生きているようだ。

181 きさらぎのゆび細くして弥勒仏
 京都の広隆寺だろうか、それとも奈良の中宮寺か。弥勒菩薩・菩薩半跏像などは、指が特徴的である。「きさらぎ」という季語の響きも効果的だと思う。寒い本堂だろうから、その指の細さもみやびさは言うまでもない。

223 落ち鮎のころは山より雨のくる
 秋に鮎が産卵のため川を下る。そのころは山に雨が降る季節である。一瞬を詠った句ではないが、ゆったりとした季節の繰り返しが詠まれている。落ち鮎の寂しさ、山からの雨の静かさ。落ち鮎で筆者が思い出す句に〈落鮎のたどり着きたる月の海 福田甲子雄〉があるが、都峰さんのこの句も筆者の愛誦句となった。

260 初蝶のこぼすがごとき日の粒子
「初蝶」の句は五万とあろう。だが「日の粒子」に感銘を受けた。光は言えても「粒子」まではなかなか言えないのではなかろうか。これも現代俳句的である。都峰さんの志向が見えてくるようである。存命なら、どのように句の味が、香りが、変わって行ったことでであろうか?

280 ががんぼよ向かう岸までおれもゆく
 最後の句。この句集をずっと読んできて、最後が最も衝撃的だった。辞世の句を用意していたとは思えないので、句集を編んだ方の配慮だろうか。弱々しい「ががんぼ」に「よ」と言って呼びかけている。いや、同化している。この形の句は、氏には珍しい形ではなかろうか。「向かう岸」は当然、彼岸=あの世である。「おれ」という一人称も画期的ではなかろうか。

 改めて、心からのご冥福をお祈りいたします。

 

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