現代俳句雑感(「遊牧」より) 栗林浩

 先ごろ刊行された『現代俳句を探る』(「遊牧」代表塩野谷仁編集)に筆者が「現代俳句雑感」として、俳句の写生と文学性に係る小文を載せて戴いた。ここに再掲致します。初出は「遊牧」96号から5回に亘っている。



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(その1)
 
 現代俳句に関する雑多な流れを概観し、軽いエッセイ風の読み物を書いてみたい。つまり、堅苦しい俳論ではない。多分に私見が入ることを許されたい。
 書き方として、まず初めは「写生」について書きたい。続いて「季語」、「俳句は文学か」など五回に亘るつもりである。各回、最近の好句を挙げて、そこから議論を始めたい。第一回目に取り上げるのは次の二句である。

  麦飯は日暮の匂い私雨      塩野谷 仁

「私雨」は氏の第七句集の表題となった。この句の鑑賞にあたり、私の中でなぜか主語が「麦飯」から「日暮れの私雨」に置き代わっていた。つまり「夏の一日の労働を終え健康な疲労感を感じながら家路につく。折からさっと私雨が来た。なんとなく辺りが匂い立つような気がした。芳香というのではないが懐かしい匂いだ。お櫃を開けた時の麦飯のような匂いだ」である。この句の「麦飯」の存在も大きいが、極論すれば、「私雨」で成り立った稀有な作品である。伝承派俳人が拘る所謂「写生」の痕跡を残した写生句ではなく、過去の心象と「麦飯」「私雨」という詩の言葉を見事に効かせた句だと思う。
 もう一人の作家の句を上げる。

  盆の月笛に小指の余りけり    対馬 康子

 対馬氏の第四句集『竟鳴(きょうめい)』の一句である。明るい盂蘭盆の月下、誰かが横笛を吹いている。「小指の余りけり」とあるから、細く白く長い指であろう。なよなよしていて、万人が好む句ではないかも知れない。だが筆者は繊細な写生の好句と思っている。ふと歴史絵巻の一場面を思わせる。吹いているのは平家の若武者かも知れない。そう考えると、「雅」とか「滅びの美学」まで思わせる。これが山本健吉のいうトランスポジシヨン(移調)の効果であろう。
 一句目は写生句的ではなく、二句目は写生句である。その両方が読者に深読みを許してくれる。そこにこれらの句の魅力がある。

 そこで、曰く言い難い文学のひとつのジャンルである俳句に、なぜもこう長い年月をかけて「写生」と「俳句」の良い関係が続いて来たのかを考えたい。「写生」は不可欠なのだろうか? ただし、掲句を直接議論の題材にするわけではない。

一、子規の憤慨
 与題の「現代俳句」とは何かという定義が必要だろうが、ここでは一応、正岡子規以降の俳句と考えておこう。そう考えると、子規が攻撃した江戸や明治の旧派の宗匠俳句はこれに入らないことになる。だが、なぜ子規が彼らを攻撃したのか、そのきっかけから復習してみたい。
 今まであまり指摘されていないのだが、筆者は、子規の俳句革新には、案外、子規の性格と出自が作用していたように思っている。それに健康条件も大きかったであろう。
 性格的には、夏目漱石に言わせると、子規はお山の大将でないと気がすまなかったらしい。思いついた考えの正当性を主張するには、その考えに合わない対象なり人物を攻撃目標として設定し、徹底的に叩くことに全精力を傾注し、以て仲間に認めさせるのだ。その攻撃対象には、世間から超偉大であると信じられている対象を選ぶのが子規のやり方である。つまり、古今和歌集の紀貫之であり、俳聖芭蕉であり、同時代では宗匠の代表格にある三森幹雄であったりする。そして、それらに対するアンチテーゼとして、賞賛すべき対象を設定する。たとえば、万葉集であり、源実朝であり、与謝蕪村である。その時点で正当に評価されていない人物が良いのだ。彼らを思いっきり賞賛するのである。
 次の要件は出自である。子規の出自は松山藩、つまり幕府側についた久松氏の国である。維新直後、政府の重要な政治的役職はすべて薩長土肥に押さえられてしまっていた。薩長の藩士たちは下級武士ですら働き甲斐のある役につくことが出来た。知力・気力満々な政治家志望の子規の現実は、その進路を哲学者へ、さらには文学者へと、その都度変えて行かねばならなかった。これが彼の出自の持つ歴史的背景である。彼のような能力の高い人物は、もし官軍側の藩の出身であったなら、そして、もう少し年長であったなら、明治政府の枢要な役についていたはずである。
 もう一つ、健康問題があろう。二十一歳で吐血、二十二歳で気管出血、二十八歳で激しく喀血。当然長生きは出来ないと覚悟し、短期間で成果を出そうと超人的な努力を払った。また、その才能があった。たとえば、俳句分類の厖大な作業である。資料収集・検索も儘ならない時代である。そして、信じられないくらいの量の著作を発表する。当然若書きもあろう。彼の革新的・啓蒙的著作の中には、あと十年長生きしていれば、違った論旨のものも当然混ざって来ているはずだと、思うべきなのである。

 そもそも子規は旧派の先生から俳句を教わった。十二万句もの俳句を細かく調べ分類したのだが、その結果、厖大な数のいわゆる月並み俳句があると結論付けざるを得なかった。俳句は文学であると信じていて、俳句も文学も美術も、同じ尺度でそれらの価値を議論できると主張していた子規であった。        


(その2)

 子規の話の二回目を始める前に、また二句を掲げよう。

  草虱家出とはどの遠さなる     塩野谷 仁

句集『私雨』から抽いた。「なになにとは」が出てくる句は、思わず身構える。同感できればいいなあ、と思いながら読むからだ。大抵は違和感があって取れない。だがこの句は納得感がある。「どの遠さなのか」と自問していて、答えを読者に提示してないから読者は自由に考えられる。「草虱」による舞台設定も上手い。私にとっての「家出」とは、一晩の夜汽車の遠さだろうか? この句も前号の「私雨」の句同様、写生句ではない。

  放たれて夜店の金魚浅く沈む    対馬 康子

 句集『竟鳴(きょうめい)』から引いた。見事な写生句である。「浅く沈む」が上手い。「夜店」だから底の浅い水槽だろう。白いビニールシートで防水してある。煌々と明るい。大きなビニール袋で運ばれた金魚が、放たれて赤がさっと散る。その軌跡が浅いところを縫うように素早く動く。
さて、子規の写生論の続きを書こう。

二、子規の写生
 子規は、もともとは日本画が優れていると思っていた。だが、浅井忠や中村不折などの西洋画家と絵画論を戦わすと、油絵の写実性が山水画や美人画のそれを遙かに凌駕しており、子規の求める芸術であると信じるに至った。イタリア人の画家で工部美術学校の教師フォンタネージが浅井に教えたディセーニョ(写生)という方法論が鍵であると悟った。先述の通り、美術も俳句も同じであるというのが子規の信念であったから、「写生」という論点で月並俳句を批判することを思いついた。
 子規は芭蕉の奥の細道を追体験したかった。ついでに東北の宗匠たちを回って、月並俳句の非文学性を認識させようと、三森幹雄(陸奥国出身、門弟三千人)の紹介状を貰って出かけたが、最初の宇都宮の宗匠から全く相手にされなかった。なにせ二十歳代の書生である。子規は旅を途中で諦めて東京に戻り、俳句改革の理論武装を徹底させようと努力した。その理論が「写生」であった。お山の大将であらねばならなかった子規は、私憤にも似た思いで、「写生」を担いで改革を進めたのである。
 ところで、浅井忠は佐倉藩、中村不折は高遠藩、子規が世話になった新聞「日本」の社主陸羯南は陸奥国、子規自身も高浜虚子も松山藩の出である。みな佐幕派か、そうでなくても官軍派ではない。しかも根岸という土地に縁のある人たちである。往々にして歴史はこのような地縁、人縁から生まれるのである。
 日本の優秀な西洋画家の卵たちに「写生」を教えたフォンタネージは、その昔パリへ行って、コロー、クールベ、ミレーのようなバルビゾン派の影響を強く受けていた。彼らの風景画は写生が効いているがやや暗い。浅井も不折も影響を受けて同じような暗い絵を描いた。しかし、浅井や不折は直接ヨーロッパで絵を学んだのではない。彼らがパリに行って帰国するのは、子規が亡くなる直前(浅井)あるいは三年後(不折)である。パリではもうレアリスム派(後世の社会主義リアリズムとは違う)よりも印象派やアール・ヌーボーが隆盛であった。
 官軍の雄である薩摩藩には黒田清輝という青年がいた。彼は薩長の波に乗って若くしてパリへ出かけ、十年も滞在し、明るい印象派の画風を持って帰った。「湖畔」という団扇を持った女性の明るい絵をご覧になった方は分かると思う。これを「紫派」と言った(浅井らの暗い絵は「脂派」)。子規は黒田の絵をみて、「無造作である」と言って斬って捨てた。このことは重要だから、西洋画が写生に向いているという主張とともに正確に引用しよう(原文に句読点を入れた)。
  洋畫 の長所は冩生にあり。冩生に供すべき材料は無限なり。故に洋畫は陳腐に陥るの弊少なし。(中略)若  し没趣味の洋畫と没趣味の日本畫とを比すれば、洋畫は新奇の點に於いて冩生の點に於いて優ること一等  なり。
  紫派 一名黒田派ともいふとかや。近來大流行の洋畫にして色は重(ママ)に茶と紫とより成りたちたりと申す  ことなり。此派の長所は輕く無雑(ママ)作なる處に限られたり。去れば壯大なる處、勁抜なる處、沈静なる處  は到底此流派の筆にて冩し出すべからず。只、世の中には輕く無雑作なる人間が多き故に此流派の人が展  覽会を占領するようにも見ゆれど、目明き一人は人の見ぬ處で一生懸命に自己流の腕を磨き居れば、何も   展覽会に關係したことにはあらず。(初出は「日本」明治28年12月27日。『子規全集(第12巻)』講談社の   「棒三昧」136頁より引用)

 浅井や不折と親し過ぎるが故に、このころの子規は清輝の良さに気がつかなかった。惜しいことである。歴史にタラレバは許されないが、子規にはもっと長生きしていて欲しかったと希う所以である。
 しかし、若書きであったとしても、「写生」は子規の功績である。多少の異論はあろうが、「写生」は絵画でも文学でも、いわんや俳句においては第一の基本である。とは言え、僅か十七音の俳句は短すぎて如何にも写生には不便な表現形式である。フランス流のレアリスム(=バルビゾン派)が下火になっても、日本の写生俳句は長命である。それは何故なのであろうか?  


(その3) 

三、子規の「写生」という武器

  いま星が落ちるから水鳥潜る   塩野谷 仁
 
 氏の「私雨」から引用した。普通の意味での写生句ではない。因果関係の理詰めの句でもない。流星と水鳥を別のところで見たのかも知れないが、そのイメージを配合的に詠んだ。星が落ちるという秋のイメージを水鳥の季感(冬に近い)に配合した。星の落ちる方向と瞬間が水鳥(鳰だろうか)の潜る動作と瞬間とに妙に符合していて面白い。氏はそうは思っていないだろうが、敢えて勘繰れば、写生と季語への挑戦意図を込めながら軽妙な句をなした、と筆者は思っている。

  火の中を火の粉のとほる寒さかな 望月 周

 望月氏が俳人協会新人賞を得た句集『白月』から引用した。これは厳密な写生句である。篝火だろうか、燃える様をよく見た句である。火と対照的な「寒さ」を配合したが、この「寒さ」も身をもっての実体感として、リアルに受け取れる。

 これまで、「写生」を論じてきたが、「写生」の本家のバルビゾン派が衰退したのに、俳句の世界の「写生」は何故長生きしているのであろうか?
 その答えは子規の「写生」の定義がひどく柔軟だったことによると筆者は思っている。それは子規の論を読めば分かるのだが、いかにも「写生」の定義が初期から晩年に掛けて変わっている。それは、西洋画に対する見方が変わってきていることに符合している。この変化を簡単に纏めるなら、

① 自然風物は何でも写生により俳句となしえる。
② 西洋画(浅井忠らの脂派)のように中心を据え、構成的に、壮大に、印象鮮明に、写実的に。汚いものは省いてもよいが、無いものは加えてはいけない。
③ 趣が湧く対象でないと俳句にならない。
④ 西洋画でも黒田清輝の紫派の絵はスケッチ的で無造作だ。
⑤ 見えないものも、趣が出れば加えてよい。
⑥ 平明・淡白な小品の絵も、俳句に共通したものがあり、中心がなくても良い。
⑦ 脂派(浅井忠らの暗い画風)も紫派(黒田清輝らの明るい画風)もそれぞれ良さがある。

という具合に変わって来たということになろう。
 このように子規の「写生」の定義は流動的であった。そこには「見えるものは勿論、見えないものでも写実的に画く」という原則があるだけである。あたかも細則のない教義の如く自由であった。だからフランス流の「レアリスム」の時代が終ってからも、日本の「写生」と俳句の蜜月関係は続いたのである。因みに、子規の「写生」の初心を正直に守り、それが故に定型と有季を二義的に考えてしまったのは碧梧桐であり、その彼が、柔軟な「写生」を指向した虚子との抗争に敗れたことは、宜なるかなである。
 繰り返しになるが、フランスのレアリスムはクールベによれば、天使を描けと言われたら「描きましょう、天使を連れて来て下さい」と言ったということだが、彼らは「見えるものだけを見える通りに」描いた。それが嵩じると見たくない汚い物をもその通りに描くようになる。それに反発する人も出てこよう。内的な精神世界や夢の世界を追求する人たちは、「見えないものにこそ真実の『美』があるのではなかろうか」と主張し始める。これが印象主義に続いて盛んになった象徴主義とか、その後の表現主義である。たとえば、グスターブ・モローがこの象徴派にあたるが、ある絵では、サロメに配し、宙に浮いたヨハネの生首を描いている。但し、彼らは見えないところも具象的に描いた。あたかも写生したかのように………。
 このような変革は、時間差はあるにせよ、世界共通なのであろう。かなり遅れて日本の俳句の世界にも「写生」に異議をとなえる人々が出て来た。代表は水原秋桜子である。自然の真と芸術の真の違いを主張し、写生を教義とする高濱虚子に反抗した。昭和六年であった。しかし、秋桜子らは、象徴派が見えないものを具象的に描いたと同じように、自らの体内を一度通過させて、実物以上にそれらしく表現した。

 西洋画から得た「写生」は、その定義をアメーバーの如く変容させることで、俳句の要請に応えてきた。だから「写生」は骨法として生き永らえている。子規は修学期第二期までは「写生」を守らせ、それ以降は「非実非空」を推奨した。自身の「写生」の定義や意味合いも、絵の見方もどんどん変わって行った。子規のこの変化は常に「俳句を文学へ」の志向が基本にあった。一方、後継者の虚子は、「写生」をさらに広く深く柔軟に解釈し、弟子たちに奨めた。弟子たちも柔軟な「写生」の定義による効能・恩恵を十分に受け取った。虚子の志向は、俳句が文学や芸術であるかどうかの以前に、「俳句の俳句性を磨く」方向へ進んだ。そして「写生」と俳句との関係には、論理的に議論しても、その先は相変らず茫洋とした大きな何ものかがあって、そのまますでに百二十年以上も経ってしまったという事実だけが残っている。それが「写生」長生きの要因ではなかったか。同時にそれは子規の俳句革新が、本当はまだまだ未完であって、もし彼がもっと永く生きていたなら、さらに変質する可能性があったのではなかろうか、と思わせてくれる。
 

(その4)

四、現代俳句の季語感覚

  降りるための階段もあり春三つ星 塩野谷 仁
 
 塩野谷氏の前回の句〈いま星が落ちるから水鳥潜る〉もそうであったが、この句の季語感も微妙である。三ツ星と言えばオリオン座で、冬が一番綺麗である。それを「春の」とことわっている。時間的には深夜であろう。確かに階段というものは昇るためだけのものではない。降りると言うことは何を象徴しているのだろうか。折りしも、春だから星は潤んでいるはずである。読者に色んなことを考えさせてくれる。それが楽しい。

  身じろぎもせぬ寒鯉に傷新た   望月 周

 前回同様、望月氏の『白月』から引いた。明確な写生と確りした季語を使っている。説明は要らないほど句意は明瞭である。寒鯉の傷がいたましい。

 今回は季語・季題について筆者の考えを書こう。実は、飯島晴子の季語観と非常に近いのである。彼女の季語への拘り方は、むしろ緩やかである。つまり、あえて本意本情をずらしているところがある。彼女の季感・季語に関する考えは、次の言で明らかである。
   季感の微妙さには限りない魅力を感じるが、季感は私(=飯島晴子)の命題ではない。私の格好だけの有   季は、有季正統派にはうさんくさく見られているし、革新派には非難される。私の有季が両方から気に入られ  ていないということは、私の気に入っている。

 晴子の幼いころからの京都での生活は、寒いのに三月が来れば春の恰好をさせられ、行事・習慣に従がわされるものであったが、このことに抵抗を感じていたようだ。彼女の季語至上主義でない作り方が、ここから生まれているのではなかろうか。かといって無季俳句はごく僅かしかない。〈養家★→ようか★にて消防服を着てみたり〉がその代表であろう。

 ここまで書いてきて、ふとあることを思い出した。この二月に亡くなられた和田悟朗さんを、生駒のご自宅に訪ねたときのことである。たしか、平成二十一年のことだった。そのとき、氏は季題・季語についてこんなことを語られた。 「有季定型と言われだしたのは子規以降のこと。芭蕉の時代は、季語云々はなかった。虚子が家業として俳句を広め門人を育てるための一つの道具立てとして、花鳥諷詠などの言葉を必要にかられて生んだのです」

 これと同じ趣旨のことを、最近、五島高資氏も書いている。俳誌「連衆」(平成27年2月号)や「山河」(平成27年4月号)である。五島氏は、「(有季定型とは)真の伝統的俳諧精神とは異質な形式主義に基づく虚子の恣意的な俳句の定義」であり、「(それを)金科玉条とした一流派の俳句に過ぎない」とまで言っている。

 これらの意見には至極賛同するのだが、それにしても世の中、かくも有季定型にかたまったのには、それだけの理由があるのであろう。筆者は、無季句も季重なりも認めるが、自分では作らない。そのような句に、よい句が少ないという徹底的な事実を認めざるを得ないからだ。とは言え伊丹三樹彦が以前から言っている「超季」を、とくに海外での俳句の発展を考えると、古臭いなどと言わずに、今の我々はもう一度重く考えた方が良いと思うのだが、如何であろうか。
 
 もう一つ、筆者が痛快に思った記述が金子兜太によって書かれている。その趣旨を引用しよう(「俳句」平成二十七年四月号)。
   鈴木六林男の〈暗闇の眼玉濡さず泳ぐなり〉を無季句だと書いたら、「泳ぐ」は季語だと叱られた。その後、   いやあれは無季の句として読むべきで、その方がインパクトがある、という意見をいただいた。
  「泳ぐ」を季語として読むか、小生(=兜太)の言い方では「事語」として読むかということだが、結論は、そんな  算術のような読みではなく、「詩語」で読めばよい、と小生はいま思い定めている。
  季語だけにこだわり、これを世界にひろめたいと言いふらしている人の浅はかさを笑いたくなる。少くも欧米の  人の詩への関心は、俳句のような「極力短い詩」にあるのではないか。
  大須賀乙字は季感を形成する中心的景物を「季語」とする、という新しい定義を下した。これに「事語」を加え  て、俳句の創り出した「詩語」としたいのである。

 これら諸氏の論を今もう一度考えて見る必要がありそうである。こう言うと俳人協会や伝統俳句協会に楯突くように受け取られるが、そうでないことは次回で伸べることで分かって戴けよう。ここでは、俳句をもっと広くもっと先まで、つまり、俳句を愛する人たちのずっと先のことまでを考えると、つい言いたくなるのである………このままで良いのか………と。
 今、有馬朗人さんを中心に、俳句の世界遺産化への働きかけがなされている。そのとき、当然「俳句とは何か」が国際基準で語られねばなるまい。有季定型、花鳥諷詠を外国の俳句愛好家にどこまで強く要請するのかを見守って行きたい。

(その5)

五、俳句は文学か?

  淋しさと寂しさの間(あい)海月浮く   塩野谷 仁

氏の『私雨』から引いた。写生句ではない。明らかに俳句で文学を指向を志した一句であろう。

  つらなれる目刺もおなじ日に死せる 小原啄木
 
 小原氏の『無辜の民』の一句である。東日本大震災の句が多い。掲句、つくづくと目刺を眺めた。その串の鰯たちは、一匹一匹がみな同じ日に捕えられ、死んで並べられている。目刺と震災犠牲者を同列に扱うのは失礼かも知れないが、作者の眼奥に焼きついている霊安所の景を思えば、悲しさが膨らんでくる。「目刺も」であって「目刺は」ではないのである。「も」が効いている句の好例であろう。写生的であるが、背景を考えると、「震災文学」という言葉があるかどうかは知らないが、これも文学指向の句と言ってよさそうである。

「俳句は文学か」を議論するとき、まず頭に浮かぶのは正岡子規である。彼は俳句を文学に高めるため、旧来の宗匠俳句を攻撃した。そして、俳句は詩や小説や美術や音楽と同じ基準で語られるべきだと主張した。つまり、彼は俳句拡大派である。その弟子の高浜虚子は、むしろ俳句は俳句であり、その俳句性を磨くため「写生」や「花鳥諷詠」を唱えた。俳句の俳句性への収斂指向である。
 その流れが大勢を占めてくると、反動も生まれる。水原秋桜子を初めとする新興俳句派である。この流れは、俳句を「詩(=文学)」に近づけようとする点で、俳句拡大派である。
 こう考えると俳句の指向するところには、文学への拡大と俳句そのものへの収斂との大きく分けて二つの方向があると筆者は思っている。
 収斂派が大勢を占める中で、山本健吉はそれに共感したのであろう、新興俳句を批判した。それは、俳句が隣の世界(例えば詩の世界)に魅了され、その世界を指向するならば、それは俳句の衰退につながると主張した。
 桑原武夫の第二芸術論が出されたとき、俳句を文学に広めよう(あるいは高めよう)との意気ある俳人たちは実作でそれを示そうとした。その点で、彼らは俳句拡大派である。一方、虚子は「そうですか、俳句も芸術になりましたか」という意味の発言をしたという。俳句は俳句でいいのだ、ということである。
石田波郷が「俳句は文学ではない」と語ったことが昭和十四年「鶴」一月号に初めて出た。これにも触れねばなるまい。これは石野兌★→だい★の句への批判であった。波郷の主張は、
   まだまだよく作ろうといふ文学的意図がみえすいてゐる。俳句は文学ではないのだ。俳句はなまの生活で   ある。この言葉は註釈なしには通用しないのであるが、まあここではかく放言しておきたいのだ。諸君は諸君  の呼吸や飯食の、生血のかよふ真剣さ、そのことを考へてみる必要がある。俳句を作るといふことはとりも直  さず、生きるといふことと同じなのである。
であった。この言は大いに誤解されたようである。そのため、この逆説的な言い方を、波郷は少し丁寧に説明しなおして、次のように書いている。
   僕は嘗て俳句は文学ではないと言つたことがある。『鶴の眼』に序文を戴いた横光利一氏がこのことをとり   あげられてから、方々で何故俳句が文学でないか、俳句は文学でないと言ひ放つだけのものを『鶴の眼』一   巻から読みとることは出来ないといふ声である。勿論俳句は文学である。何が僕をして俳句は文学ではない  と言わしめたか。種明しをすれば雑作もないことだ。然し僕は種明しなどはやらない。僕は「鶴」の選後評で或  る作者に対してさういつたのであるが、さういふ個の場合でなくこれを一般的に、俳句性の確認の為に俳句   は文学でないと言っていゝ角度があるのである。この言葉の矛盾を指摘したりするのは些なる愚であって、敢  てさういふ角度から俳句を見直すとき、人間と俳句の関係延いては俳句性を掴むことができるのである(「馬  酔木」昭和十五年三月号)。

 これは俳句性の強調であって、俳句は俳句であって他の文学とは異なる文学であると言っている、と見るべきであろう。つまり、波郷は、この言に関する限り収斂派である。

 現在、有馬朗人氏が中心となって、俳句のような短詩系を世界遺産化しようと動かれている。楽しみな動きである。考えてみればこれは俳句の拡大指向である。このことはきっと「俳句とは何か」を国際的に議論する好機を齎すであろう。グローバル・スタンダードとして、俳句には「定型」「季語」「写生」が必要なのか? もし欠くとすれば、どれを欠いてもよいのか? 文学性は要求されるのか? などなど興味が尽きない。
 筆者は、ほかの事は欠いても「定型」が何よりも大事だと思っている。

 世の中には、俳句の俳句性を究極までに磨く派と、俳句の文学への拡大を図る派があるように見えてならない。だが、一般の俳句愛好家は、そのどちらとも違って、中間派であるかも知れない。



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