抒情俳人―大串章さんに聞く(前編)

「小熊座」に連載させて戴いているシリーズ「昭和・平成を詠んで」の平成28年4月5月のお客様は大串章さんでした。氏は俳人協会の副会長を務めておられ、この5月には第1回千葉県俳句大賞を、その句集『海路』によって受けられた。同誌の4月号掲載分のみ、このブログにアップ致します。


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 抒情俳人ー大串章さんに聞く          聞き手 栗林 浩              

 安保法制が国会を通過した今となっては、戦争の負の記憶を風化させることなく語り継ぐのも、俳句の使命だと、筆者は思っている。先達俳人の銃後を含む第二次世界大戦やその後の高度経済成長、環境破壊、巨大災害などなど大きな時代の流れと、そこから生まれた俳句を語ってもらうのが趣旨である。イデオロギー論争を挑むものではない。
 今回は「百鳥」主宰で俳人協会副会長でもある大串章さんに伺った。満州での苦労や、戦後の貧困、学生運動のこと、高度成長時代の歪み、そういった世情と氏の俳句との関係を見て行きたいと思ったのである。
 氏は講演や評論、随筆、つまり散文的にはそれらの経験を切に語られるが、韻文最短詩型である俳句ではそれが少ない。その訳は、お話を伺って理解できたのだが、俳句という「器」の持っている性格と、氏の「抒情」重視の態度と、氏がいつも肯定的で善意の人であるということに関係しているのではないか、と筆者は思うに至った。

 筆者が好ましく思っている初期の大串作品の一つは、
   秋雲やふるさとで売る同人誌
である。この句の通り、大串さんは抒情の人と言われている。中学生時代の作品に次の俳句と短歌がある(昭和三十年一月一日の毎日中学生新聞)。
 俳句一等 打ち合うてはねてまた寄るけんか独楽
 短歌一等 昨夜まで窯場は攻火見えいしが
        今朝は寂かに初日浴びおり
写生的ではあるが十分に抒情的でもある。
 最近では、朝日新聞俳句欄に「うたをよむ 抒情について」として、次の主旨の短文を書いている。

  抒情という言葉が誤解され、客観写生説や俳句もの説によって抒情軽視が進んだ。抒情とは文字通り情を抒 ★→の★べることであるが、その「情」は感傷的で情緒的なものだけではない。人間の喜怒哀楽すべての感情 を含む。戦後七十年を過ぎ、敗戦や原爆に対する感情を率直に詠むことも抒情である。人間を健やかに詠む  のも抒情俳句であるが、感傷的な呟きではいけない。「抒情とは情の高潮した発露である」という大野林火の  言がある。

大串さんと満州
――大串さんは旧満州東北部に幼少時代を過されました。その辺りから引揚げまでのお話を伺えますか?
大串 昭和十二年生まれですが、十六年に満州に渡りました。父が大阪セメントの技術者でしたが、急に一家で渡ることになったんです。錦州市の女児河★→じょじがわ★というところです。そこの勤務先の社宅に入りました。甲社宅・乙社宅・独身寮とあり、目の前は草原です。左手に高粱畑があり、その中の道を行くと父の工場がありました。草原では羊が飼われていまして、夕方になると群れて帰ってきます。不自由のない生活でした。
――先生に、羊群(後出)の句がありますね。
大串 ええ、そうですね。平和な景です。大変だったのは終戦直後です。私たちの社宅の裏側は砂礫の丘でした。その一番上に水源施設がありました。水源は大事ですから、煉瓦塀を築いて囲み、入口は鉄の扉です。八月十五日。それまでは日本人は威張っていました。でも事情は一変。社宅の周りに鉄条網を張り小銃を持った夜警を立てたりしました。約一ヶ月後、ソ連軍が来まして、武装解除です。そうしますとね、すぐ一、二時間後ですよ、戸を叩く音がして、銃を持った軍服姿の男が来て「金を出せ」って言うんです。父はそのとき不在でした。母が「お金はありません」というと、男は腕をまくって腕時計を幾つも巻いた腕を見せ「これを出せ」って言います。「無い」って言いますと、形相をかえて銃剣をお袋に突きつけるんです。「これは大変」と思って私は後ろの部屋へ行って、置時計を持ってきて差し出しました。男はそれを背中の袋に入れて、何かを叫んで出て行きました。お袋は私の頭を撫でながら、「有難う。だけどね、あの小銃は木造で剣は竹光だったわよ。軍人じゃなくてコソ泥だよ」って。感心しましたねえ。見抜いていたんですよ。お袋はそのときまだ三十歳前でした。
 それから二、三時間して、今度は「匪賊が来るぞ」って声がして、私たちは大急ぎで貴重品をもって裏の砂礫の丘を駆け上がり、水源地に避難しました。中に入って鉄扉に鍵を掛け、青年団が前列、私たちはその後ろで壁を背にしてじっとしていました。そうしましたら、匪賊が塀の外から「金を出せ」って怒鳴って、扉を破らんばかりでした。やむなくみなから紙幣を集め麻袋に入れて塀の外に投げました。賊は引揚げていきました。ところが、すぐまた別の匪賊が来ます。また同じように麻袋を放り出します。三度目も来ました。その時はもう紙幣がありません。問答の末とうとう鉄の扉を開けられました。匪賊の幹部らしいのが前列に坐っている青年団の数名に銃剣を突きつけ、部下たちは我々の金品を物色します。銃剣を突きつけられた青年が顔を背けますと、その眉間にまた銃剣を突きつけます。顔の向く方、向く方へと執拗に突きつけるのです。引き金には指が掛かっています。私の目のすぐ前でね。無言の応酬でした。二、三十分くらい経ったでしょうか、誰かが「ソ連軍がやってくるぞ」って叫んだんです。すると、どうでしょう、匪賊はさあっと去って行ったんです。後で知ったのですが、「ソ連軍がくるぞ」は思いつきだったようです。
 その次は現地人たちです。やってきて、あらゆる物を奪って行きました。敷いている毛布まで、人を突き飛ばして奪います。それを見ていた青年たちは、武器はありませんでしたが、反撃に出ました。石を拾って投げつけたんです。必死ですから石合戦に勝ったんですね。我々は、血を流して蹲っている暴徒を目の辺りにしながら、十キロほど離れた隣町へ避難しました。社宅は火に包まれていました。目に焼きついています。
それから取り敢えず住む家(六畳二間に二家族)を見つけましたが、日本軍が世話してくれたのではありません。既に軍人も通訳もとっくに逃げてしまっていましたからね。それから父はピーナッツの行商をしながら、ほそぼそと一家は飢えを忍びました。妹がそれを欲しがりましてね、空腹ですからね、ピーナッツを仕舞ってある袋棚を見上げて、欲しいと言うんです。いえ、まだ言葉は喋れませんでしたがね……。棚を指さしてねえ。与えることはできなかったんです。この妹は引揚げ後、亡くなります。食うや食わずの日々を九ヶ月ほど送って昭和二十一年五月、鉄路で葫蘆★→ころ★島に向かい、集まっていた在留日本人とともに貨物船に詰め込まれ博多に向かいました。
筆者注――このことは世に「葫蘆島大帰還」として知られている。大串さんの引揚げ船は、お父さんのノートによれば、五月二十二日博多港着とあることから判断して、組織的な引揚げ開始の二番目か三番目の船であったようだ。おおかたの引揚者は、葫蘆島の収容所で十日から二週間ほど船を待ち、消毒を受けて乗り込んだ。ある資料には、乗船を待つ老若男女が、大きな荷物を背負い、抱え、長蛇の列を作って並んでいる写真が掲載されている。乳飲み子を抱いて、あるものは遺骨を提げての帰国だったとある。葫蘆島からの引揚げは三年続き総数一〇五万人以上に及んだ。
 満州での居住地が錦州市の女児河区で、割に港に近かったことは幸いなことであったに違いない。葫蘆島に遠い人たちは、帰国に三年もかかっている。
 集団での悲劇もあった。麻山事件では哈達河★→ほたほ★開拓団がソ連軍や現地住民に包囲され、自決などで四百人以上が死亡。葛根廟事件では八月十四日、避難中の開拓団千人以上、佐渡開拓団跡事件では八月二十五日ごろ、避難中の二五〇〇人中一四〇〇人が死亡。八月下旬、敦化日滿パルプ事件では、製紙工場を占領したソ連軍が社宅に監禁した女性を暴行、女性や子どもが服毒自殺。越冬中には発疹チフスが流行し、計約一一〇人が死亡、とある(朝日新聞、平成二十七年十一月二十四日版)。
 「集団自決とは、窮地に立った開拓団が、最初妻子を殺し、続いて自らの命を断つことである。私たちは、戦争の恐ろしさ、平和の有り難さを忘れてはならない」
と大串さんは句集『海路』のあとがきに書いている。
 氏は両親らと博多に着き、父の故郷佐賀県吉田村(現嬉野市)に落ちついた。

――満州を振り返っての句は初期の句集にはないようですね。第五句集が初めてでしょうか、次の句があります。
  満州に埋め来しめんこ黄沙降る 第五句集『大地』
  満州の羊群はるか敗戦日    第六句集『山河』
  羊飼釣瓶落しに鞭鳴らす
  春吹雪満州の雪重かりし    第七句集『海路』
  よみがへる満州の日々黄沙降る
 初期の句集にはなくて、後半の句集に数句散見されますが何故でしょうか? きっと、満州や戦争は俳句にしたくないモチーフではなかったのでしょうか?
大串 そうなんです。一句目のメンコの句は、隣町に逃げてきて、長屋に住んだのですが、そこに共同風呂がありまして、その横に通路があって、そこに埋めたんですよ。メンコは結構強かったんですよ(笑)。子どもにとって宝物でしたからねえ。今はどうなったでしょうかねえ。
――錦州の女児河には、その後行かれましたか?
大串 いやあ、ないんですよ。何となくね。松崎鉄之介(故人、最後の「濱」主宰)さんはシベリアにおられ、行って観て来られたようですけど、私はねえ……。満州の記憶は残っております。ただ、俳句の形になるとき、それは引揚げ後の産土の地、佐賀県吉田村の自然が余りにも心に鮮明に刻まれていますので、満州が数の上では少ないのでしょう。しかし、満州や戦争の負の記憶があるせいで、私の中で、母郷嬉野が顕在化しているとも言えます。

少年時代
大串 博多に付きましたらDDTを掛けられ、虱の駆除です。満州には虱がいたんです。日本ではその後、蚤に悩まされましたがね(笑)。小学校に転入しましたが、九九ができませんでねえ(笑)。満州では習ってなかったからねえ。何年に編入するか悩みました。でも三年生に編入しました。吉田村はよい所でした。春は桜、秋は紅葉、栗拾い。父の家は皿屋というところで、窯業の盛んなところでした。よい所です。「国敗れて山河あり」です。
――東京でなくて良かったですね(笑)。
串大 ええ。日本のよさ、田舎のよさ、それが先ほどの話に出た俳句の根っこにあるんだと思います。満州との差の大きさですね。それが満州の句が句集には少ないことの理由かと思います。思い出には残っていますので、ときどき超結社の句会で作りました。藤田湘子、三橋敏雄、池田澄子、鳴門奈菜さんらと一緒でしたが、三橋さんがよく取ってくれた記憶があります。三橋さんはご自身でも戦争を詠んでましたね。
――帰国後、肺浸潤にかかり、二年間も休学しますね。
大串 肺浸潤と分かったのは、熱が下がらなかったからなんです。村にはレントゲン施設が無かったので、隣町から組み立て式のを運んでもらって、家の座敷で組み立ててもらって撮ってもらったんです。二、三日後、お袋が行って聞いてきてくれて分かったんです。肺病の寸前ですから、その頃の日本では死の病ですよ。敗戦を挟んで十五年間ほどの死因の第一位です。安静を言い渡され、滋養のあるものを……家では鶏を十羽ほど飼っていましたので、いつもの時間に卵を取りに行ったものでした。やがて新薬パスが出来まして、助かりました。
 この期間が私の俳句に繫がるんです。毎日中学生新聞(中毎)です。短歌、俳句、詩、絵画の募集がありまして、私ははじめは短歌でした。先にお話ししました「窯場」の歌以外にも、
  麦踏みて帰りし父はうれしげに
       のびゐし様を我に語れり
とか、とにかく安静時間が午前午後二時間ずつありますので、たくさん作り、応募し、随分メダルを貰っていました。その頃、高橋睦郎さんも応募していましたよ。私は絵もやっていました。清水哲男が山口に住んでいましたが、彼が「中毎」から切り抜いたお化け煙突の写真を自分のスクラップに貼っていまして、その裏側に私の絵が載っていたのです。随分後に京大で知り会った時に、その新聞を見せて貰いました。偶然のことでした。彼は、後に東京から「濱」の昭和三十四年二月号を送ってくれまして、私が「濱」に入会するきっかけにもなっています。
 どうして短歌から俳句へ行ったのか、論理的に説明できないんです。俳句のもつ心優しさなのかとも……直接的きっかけは五つくらいあるんですが、どれも偶然なんです。  
 一つ目は中学の図画の西野という先生。青木月斗の系列誌で「小同人」と言う雑誌を私に下さったんです(とおっしゃって、小さな薄いセピア色になった冊子を出して見せて下さった)。その主宰の阿部王樹の巻頭言には、「俳句は理屈でなく実感だ」とあり、第二芸術論を言っている連中がいるが、芸術であろうが、非芸術であろうが構わないって。それに共感したんですね。その巻頭言の後ろの方に〈夏籠一日百句あらまほし〉という句があるでしょう。これについて師の青木月斗が阿部王樹を叱りつけているんです。「夏籠」を「なつごもり」と読ませるとは何事だ。「げごもり」としか読まない。この句は間違っている。「夏籠の」とあるべきところ、「の」が誤植で落ちたとしても、「一日百句」とはなんだ、と言うんです。せいぜい一日十句だと。
そのことをね、こんどは阿部王樹が素直に自分の雑誌「小同人」に書いているんです。青木先生から叱られたってね。私はこれを見て俳句の世界はいいなあって思いました。師弟の密な信頼関係が如実に感じられましてね……。
 二つ目の理由は、佐賀でただ一人の「ホトトギス」同人の森永杉洞先生から葉書が来まして、NHKの佐賀放送の「ラジオ俳壇」を聞くようにってね。それで聴きました。私の俳句が大人に交じって入選三句に入っていたんです。まだ中学生です。原句は〈麦踏に下校せし子のまじりけり〉でしたが〈交じりをり〉に添削して取って下さったんです。その森永先生がある日我が家に来て下さったんです。学校から帰ったら、お坊さんが家にいましてね、何かなと思っていたら、お袋が「アキラさんにお客さんばい」って。杉洞先生は京都の南禅寺の管長の資格をお持ちの方です。先生は「アキラ君、俳句は平等なんだよ。中学生も拙僧もね。良ければ取られ駄目なのは取られない」って言われました。
 三つ目のきっかけは、「俳句」という雑誌を嬉野の本屋で買って、大野林火の『青水輪★→あおみずわ★』の書評に出会い、感激したことです。
 四つ目は、高校で現代国語の先生に「おくのほそ道」の冒頭を暗記せよと言われ、暗記するうちに親しみを覚えたこと。古文の先生でなく現代国語の先生でしたよ。これがもし『古今和歌集』のあの有名な「仮名序」だったら、俳句でなく和歌の道を進んでいたかも知れないねえ(笑)。
 五つ目は、清水哲男が東京から「濱」の昭和三十四年二月号を送って来てくれたこと。
全て、人との出会いの「偶然」がなせる業なんですよ。

筆者注――別のところで、大串さんは、「偶然」が今の自分を生かしてくれている、と回顧している。思えば、満州からの引揚げでは、女児河が葫蘆島という港に近いところで、不幸中の幸い。奥地だったら大変だったろう。ソ連軍や匪賊の襲撃からも助かった。
 引揚げてからは、肺浸潤が新薬パスで治った。サラリーマン時代には、国鉄の鶴見事故、海外出張時のあわや大惨事の飛行機のこと、サリン事件では神谷町あたりの至近の場所にいた。結果的に、難事を躱しかわしして生きてきた、という。だからだろうか、大串さんは人柄も俳句も実に謙虚である。
 大串さんは俳句少年だったが、魚釣りも目白取りにも励んだそうだ。鰻取りの三つの方法の講釈や、鳥もちでの目白取りの話は面白かった。大野林火にすぐ師事しなかったのは、遊びも結構忙しかったからである。
  見ておれば坐れといいぬ囮守                                         (つづく)

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