反戦の女流俳人=木田千女

 俳誌「遊牧」の塩野谷代表のご厚意により、表記の特別取材分を掲載させて戴いた。同誌101号(平成28年2月刊行)。以下に、全文を掲載致します。



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寄稿 特別取材
反戦の女流俳人=木田千女     聞き手 栗林 浩

 平成二十七年秋、金子兜太の「アベ政治を許さない」の墨書が巷間大いに出回ったのだが、結果的には、安保法制案は国会を通った。このまま日本が戦争に雪崩れ込まないようにと願うばかりだ。戦争や原爆の負の記憶を風化させないように、俳人は俳句をもって努力すべきであろう。
「天塚★→あまづか★」を昭和五十三年に創刊した木田千女前主宰(現主宰は宮谷昌代氏)は反戦俳人である。九十二歳の彼女の作品に「戦」や「飢餓」の句が目立つ。
  すさまじや「全員逝きし」と石一つ
  吊り革のみな手錠めく敗戦日
  流灯やひろしまの石みな仏
など、思いの深さを感じさせる作品がある。中には、
  金輪際戦はするな開戦日
  終つたとただ泣くだけよ敗戦日
  ひもじうてただひもじうて敗戦忌
  少年を還せ夕焼に飛びしまま
のようなやや直情的で報告的ではあるが、メッセージ性豊かな句が多い。
 大正十三年生まれの千女には、その年輪から生まれた句が勿論多々ある。
  ちやんちやんこ死なねばならぬ一大事
  チューリップ私が八十なんて嘘
  湯たんぽやまだ生涯の一句なし
もちろん、千女作品は老いの句や反戦句ばかりではない。端正な写生句も、俳諧味豊かな作品もある。
  白鳥のみんな汚れて渡りきし
  明日くると鶴守畦に焚火して
  パチンコの名手となりぬ敬老日
  鹿つれて移動している煎餅屋
 千女の句は平明である。しかし、会って話すと分かるのだが、その心情には激しいものがある。次の句で分かる。
  ペン先で人めつた切りペン始

俳句と反戦
―――随筆集『千女随筆集』を読みますと、千女さんは随分と涙脆い方のようにお見受けします。戦時の悲惨な    場面で、すぐ涙しています。
千女 いや、根性は強いですよ。もの凄く強いんです。でもすぐ泣くんですよ(笑い)。
―――戦争当時「ひもじい、ひもじい」の句が多いです。
千女 そればっかり。お腹がすいて、すいてねえ(笑い)。私立のカトリック系の学校(聖母女学院)でした。開戦のときは一年生で、よう覚えてますわ。思わず「この戦争負けるで」って言いました。負けるの分かってて、なんでやろね。今の首相も、みんな反対してはるのに、どうしてでしょう。みんなが止めてくれって言うてるのに………大東亜戦争の馬鹿をなんで繰り返すねん。オカシイですよ。私の句集『初鏡』には反戦句が多いでしょう。俳人協会系の人らしい方から電話がかかって来て、名前も言わずに、色んなこと根掘り葉掘り訊かれました。最後に「貴女はどの政党を支持しますか」って。私、腹立っていましたんで「共産党」ってウソ言うてやりましたよ。
―――それで女学院以降は?
千女 専門学校へ行きました。大阪府立厚生学院本科を卒業し養護教諭の資格を得、さらに医療関係へ進みたかったのですが、解剖の授業で貧血おこしまして、医学への希望は捨てました。大阪府立澱南中学校の教諭になりました。さらに立命館大学の夜間に通い、国語の勉強をしました。

俳句の縁
千女 本格的には、鈴鹿野風呂先生のところに通い始めてからですね。子連れでね。先生に可愛がられました。吟行に子どもを連れて行ったら、先生はご自分の弁当から玉子焼きを取って子どもに下さいましてねえ。大好きな先生です。でもね、正直言いますけど、句は分からなかった。難しいからじゃない。平凡だから、どうしてこれが良いのかって。でも、先生の魅力で繫がっていました。海道先生の時代になって、いよいよ分からん。「京鹿子」の賞を戴いても、こんな句を作っていては………と満足じゃなかった。
―――昭和四十一年頃から「天塚」の俳句グループを作り、昭和五十三年には結社誌を創刊なさった。「京鹿     子」を辞めて恨まれなかったですか?
千女 大変でした。謀叛者ですからね。新しく俳句の先生を真剣に探しました。そのとき鷹羽守行先生の第一句集『誕生』に出会いました。いい句集です。
―――〈天瓜粉しんじつ吾子は無一物〉が著名ですね。

戦時体験
―――少し遡ります。戦争中どこにお住まいでした?
千女 大阪府枚方市です。食糧事情が一番の悩みでした。空腹で、空腹で、たまの粥も目玉が映るくらいの薄さです。
―――それを思い出しての一句が、〈藷粥にうつる目の玉終戦忌〉ですね。辛かったですねえ。買出しは?
千女 ええ、買出しにも行きました。むかし、わが家にお手伝いさんがいましてね。家から嫁に行きました。いい嫁ぎ先で、農家でした。そこへ行けばって思って、友達を連れて行きました。自分が頼られる立場だったら、援けてあげるに違いないという単純な考えでした。でも、そうじゃなかったです。けんもほろろでした。戦争は、人心を一変させてしまうんですね。どん底でしたね。
―――枚方は空襲に会いましたか?
千女 いやあ、幸い大丈夫でした。家では防空壕を作ってなかったんで、他所に入れてくれって言いましたら、ダメだって言われてね(笑い)。それから、当時は軍部の嘘が多かった。勝っている、勝っているって、すぐに提灯行列。
―――大本営発表ってね。通勤や通学の便は大丈夫?
千女 ええ、京阪電車でした。夜学に通ったのも、日本はこれじゃダメだっていう思いで続けましたね。
最近、角川から依頼状が来ましてね。戦争など、昭和・平成の一番の苦しかった思い出を書いて下さいって。書きましたよ。良かったらしくて、次に来た依頼は、地方の一番楽しい遊びは何でしたかって。書きませんでしたよ。その頃の私に何の遊びがあるんですか? お腹は空くわ、空くわ。地方の遊びなんてとんでもない。私には句会しか無いって。一にも二にも句会ね。そしたら、それ書いてくれって。
―――苦しかった思い出の記事は「俳句」の平成二十七年の八月号ですね。弟さんが少年兵の志願をしようとし    て、受け持ちの先生がお父さんのところへ承諾印を貰いに来た。だが、お父さんは教師に「否」の返事をし    た、っていうお話ですね。それで弟さんは生きてこれた。お父さんの反対のお蔭ですね。その時の句が、     先にも挙げましたが、〈少年を還せ夕焼に飛びしまま〉でしたね。千女さんは、他の雑誌にも反戦句を発表    していますね。いささか他の俳人の作品とは趣が違っています。
千女 そうでしょう。もう齢だからね。頭は朧。今のうち
に書いておかねばね。根性でもっているんですわ。だから回りが気の毒(笑い)。

俳句には「私」が必要
千女 今、若い人が「天塚」の主宰ですが、戦争を知らない世代なんです。宮谷さんって言いますが、はやく「私」を確立しなさいって言ってるんですよ。俳句には「私」が大切です。結社の中でも、選句の基準でも、いつも言ってるんですが、「私」が感じられない作品は即ボツにします。
―――「天塚」のメンバーの中に素晴らしい句を詠まれる方がおられますね。私が感動した句では、
     行く年を穴のあくほど見てゐたり   常子
     目が見えて耳が聞えて梅の花     ちよ子
   があります。「私」があります。
千女 この方は、残念ですが、もう寝たきりの方ですね。でも頭は確りしてはります。私ももう呆ける年頃ですが、俳句やると呆けるのが遅いです。真剣に命掛けてやってるとね。寝ても俳句、食べても俳句、喜びも俳句、悲しくて俳句ですからね。神様が呆けるのを遅くしてくれてるんですねえ、きっと。

鷹羽狩行との出会い
千女の随筆集から、興味ある一節があるので引用する。
  昭和五十三年は私にとって忘れる事の出来ない年であった。当時、私は自分の俳句がわからなくなっていた。(中略)私はもう一度、はじめから出直してみようと思った。そんなある日、鷹羽狩行主宰「狩」創刊を知った。私は惹きつけられるように投句した。(中略)待ちに待った創刊十月号が来た。私は不安にかられながら最後の頁から私の作品を探した。一句欄、二句欄、三句欄、ない。「あった」。巻頭の二番目に私の作品があった。
   牛に豆電球一個菜種梅雨
   奔放に生きて悔あり髪洗ふ
   悪妻やぶんぶん髪にからみつき
   仏壇に一椀の粥原爆忌
(中略)私はうれしかった。自信が体中に湧き、ひょっとして私は達人かも知れないと思った。次の十一月号が来るまで期待と希望に胸をふくらませ楽しかった。いよいよ十一月号が来た。今度は巻頭から頁を繰った。四句欄ない。三句欄ない。私は焦った。もう一度最初から見直した。「あった」。二句欄のビリに私があった。瞬間、私は腰がぬけるほど驚いた。(次)巻頭からビリに情け容赦もなく突き落とす、この「狩」の選者とはどんな人物かと真剣に考えた。そこには、ただ俳句の実力だけしか見ない厳しい目、俳句に魂を捧げた人の息吹があった。透明な選者の魂にはっきり触れた。私は急に目の前が明るくなった。私が長年求めていた本物俳句を作り出す修練の場はここだ。とうとう本物を掴むことが出来ると胸が震えた。

 もう一つ付記したいことがある。宮谷昌代の『千女の作品と人』(伊丹柿衛文庫、平成二十三年二月二十六日の講演会録)の記載から拾った話だが、右の句群の第二句〈奔放に生きて悔いあり髪洗ふ〉に係わる裏話である。要約すると………この句の原句は「悔なし」であったが、逆の意味に直された。「京鹿子」から「狩」に移るのに「悔はない」積りでいたから、この添削「悔あり」に、千女は、暫くは納得できなかった。狩行は「悔がある方が文学的真です」と言われたという。このことによって、父のように優しく導いてくれた師野風呂や、孝養をしないまま亡くなった両親のことを思い出し、自分のこれまでの生き方には「悔あり」という表現こそが真実である、と気付かされ胸が一杯になった、というのである。

現代俳句志向
―――千女さんの時代背景と句柄からして、社会性俳句や前衛俳句に行かなかったのはどうしてですかね?
千女 あの心はありますが、句はちょっとねえ。五七五じゃないでしょう。もう少し詩情が欲しい。だから行かなかった。伝統を守ってないような現代俳句はきらい。金子兜太さんの言わはることは、大いに分かりますが、「かたち」を整然として欲しいんですねん。やはり鷹羽狩行のようにね。有季定型ね。
―――でも千女さんの句は、「京鹿子」とも違い、狩行さんとも違う。どこかで誰かが「千女は狩行を手こずらせて     いる」と書いてありました。どんなことで?
千女 いやあ、東京へ出てきなさい、色々紹介するからってゆうて下さるのを、我儘でお断りしたりしてますねん。
―――拘りますけど、もっと俳句の深い所に何かがあるんではないですか?
千女 そうねえ、狩行先生には、原爆や戦争を詠んで欲しいんですよ。その気持ちの違いかなあ………。悲惨なことも日本人は詠まなくっちゃねえ。〈藷粥にうつる目の玉終戦忌〉のような句を詠んで欲しかったんですよ。
―――そこがやはり千女さんですね。俳句で何かを成就したいと考えておられる。

自選句鑑賞
千女さんから自選の句を戴いた。若い頃に詠まれたものから抽いたようだ。筆者の独断的鑑賞を書かせて戴く。
  リンゴ割る童話の扉開くごと
  夜を学ぶ少年鉄の匂ひもち
  天高し干せるむつきは母の旗
  初夢の父来てわれを肩車
  雛包むちちの文殻の候文
一句目。「童話の扉を開く」とは上手く言ったもの。まさにメルヘンの世界に引き込まれる。最近は蜜林檎が出回っており、割ると芳香が立つ。いや、むかしの林檎、紅玉とか国光とかも懐かしい。童話にもし香りがあるなら、林檎の香がよいのではなかろうか。
二句目。鉄工場からまっすぐ夜学に通う少年なのか、育ち盛りの若い体臭があって、それが「鉄の匂い」だという。「夜学」は秋の季語だが、この句からは汗をかきかき夜の学校へ急ぐ姿を思った。この頃は、千女さんも夜学に通っていたのではなかったか。汗の出る夏の夜でも良さそう。
三句目。「むつき」は母親たるものの「旗」であるという。千女さんの子育て時代の母としての句であろうか。太陽の光を存分に「むつき」に当てる。「母の旗」という断定に強い矜持が感じられる。
四句目。初夢に父が出てきて、肩車をしてくれた。一見平凡な句のように見えるが、人は幾つになっても父母を恋うもの。夢に来たのは若いお父さんだったろう。夢の中の千女さんは三、四歳だったろうから、昭和二、三年のことだろう。この句が現在も千女自選にあるということは、実に九十年も前の夢を今でも鮮明に覚えているということである。夢というものは、こうも長続きするものなのだ。
最後の句。父が書き損じた和紙の手紙なのであろう。柔かく雛を包んでいる。「候文」とあるから、格式のある文体も思われて床しい。懐かしいとも何とも言っていないからこそ、そこに父への思慕を、読者は感じ取るのである。                                                             (完)
  (平成二十七年十一月五日、久津川の「八百忠」にて)

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